馬であってあれば、結果は元より歴然。――だが不審なのは、それまで殊のほか温順だった黒鹿毛が、なにゆえにかくも狂おしく弾《はず》み出したか、その原因が謎でした。不思議に思ってのっそり歩みよりながら、よくよく見|眺《なが》めると、無理ない。まことに天地自然|玄妙《げんみょう》摩珂《まか》不思議、畜生ながら奴等もまた生き物であって見れば甚だ無理がないのです。竿立ちになって躍《おど》り上った二頭の早馬は、なんと剛気なことにも、二頭共々々揃いに揃って、あやかに悩《なや》ましい牝馬《めうま》なのでした。しかも挑みかかった黒鹿毛がまた、いちだんと不埒《ふらち》なことには、かしこのあたりも颯爽として、いとも見事な牡馬《おうま》なのです。
「わははははは、左様か左様か。畜生共に恋風が吹きおったかい。わははは、わははは。道理でのう、道理でのう、いや、無理もないことじゃ、牝と牡なら至極無理もないことじゃ」
 カンカラと声を立てて退屈男は、傍若無人に笑いました。しかし、笑っていられないのはふり落された二人です。退屈男のその大笑いを、己れ達に加えられた嘲笑とでも勘違いしたのか、果然その満面に怒気を漲らせると、身も心もないもののように只おろおろと打ち慄えていた若者の近くへ、大刀をひねりひねり歩みよりながら、鋭くあびせかけました。
「出いッ、百姓! 前へ出い!」
「相すみませぬ。ご勘弁なすって下さいまし。これがわるいのです、この、黒めが、黒の奴がわるいのです。お許し下されまし。どうぞ御勘弁なすって下さいまし……」
「馬、馬、馬鹿を申すなッ。馬のせいにするとは何ごとじゃ! 己れが乗用致す馬が暴れ出さば、御する者がこれを制止すべきが当り前、第一下民百姓の分際で、武士が通行致す道先に、裸馬など弄ぶとは無礼な奴じゃ! 出い! 出い! 前へ出い! 覚悟があろう! 神妙に前へ出い!」
「そ、そ、そこをどうぞ御勘弁なすって下さいまし。このような下郎風情を斬ったとても、お刀の汚れになるばかりでござります。以後充分に気をつけますゆえ、お許し下さいまし。不憫《ふびん》と思うてお見のがし下さいまし……」
「ならぬわッ。武士にかような恥掻かした上は、下郎なりともその覚悟がある筈じゃ! 泣きごと言わずと前へ出いッ、潔よう前へ出いッ」
 どうでも無礼討ちに成敗せねば、醜態を演じた己れ達の面目が立たぬと言わぬばかりに、蟀谷《こみかみ》のあたりをぴくぴくさせて、プツリと鯉口切りながらにじり出たのを、片手にふわりふわりと長い釣の道具を打ち握ったままで、笑い笑い割って這入ったのはわが退屈男です。
「飛んだお災難でござったな。何とも御愁傷《ごしゅうしょう》の至りでござる。わははは、わははは、黒めがなかなか味を致しましたわい。どうでござるな、御怪我はござらなかったかな」
「………?」
「いや、お気にかけずに、お気にかけずに。身共笑うたのは尊公方の落馬ぶりが見事でござったゆえではない。あれなる黒めが、人前も弁《わきま》えず怪しからぬ振舞い致そうとしたのでな、それがおかしいのじゃ。尊公方もとくと御覧じ召されよ。自然の摂理と申すものは穴賢《あなかしこ》いものじゃ。黒めが、やわか別嬪《べっぴん》逃《の》がすまじと、ほら、のう、あの通り今もなおしきりと弾《はず》んでいるわ、わはははは、わはははは、のう、どうじゃ、畜生のあさましさとはまさしくあれじゃわ。はははは、わはははは」
「なにがおかしいかッ。われら笑いごとでござらぬわッ。嘲笑がましいことを申して、おぬしは一体何者じゃ」
「身共かな、身共は、ほらこの通り――」
 打ち笑みながら、ずいと突き出したのはあの刀傷です。
「のう、御覧の通りの、ま、いわば兇状持ちじゃ。これなる眉間の傷を名乗り代りの手形に致して、かように釣の道具を携《たずさ》えながら、足のむくまま、気のむくままに、退屈払い探し歩く釣侍と思えば当らずとも遠からずじゃ、時に、いかがでござるな。御怪我はござらなかったかな」
「からかいがましいこと申すなッ。おぬしなぞ対手でござらぬ! 憎いはその百姓じゃ! 己れの罪を素直に詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]たらまだしも格別、馬のせいに致すとは何ごとじゃッ。出い! 出い! 是が非でも打《ぶ》った斬ってつかわすわッ。隠れていずと前へ出いッ」
「いや、そこじゃて、そこじゃて。馬のせいに致したと大分御立腹のようじゃが、これなる若者、身共はいっそほめてやりたい位のものじゃ。見かけによらずなかなか学者でござるぞ。尊公方もまあ、よう考えてみい。男女道に会って恋心を催す、畜生と雖も生ある限り、牡、牝を知って、春意を覚ゆるは、即ち天地自然陰陽の理に定むるところじゃ。のう、いかがでござるな。甚だ理詰めの詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]と思うが、それにても馬のせいに致したは御勘弁ならぬと仰せあるかな」
「つべこべ長談義申さるるなッ、われら、そのような屁理屈《へりくつ》聞く耳持たぬわッ。たとえ陰陽の摂理とやらがどうであろうと、先に挑んだはそちらの馬じゃ。ならば、乗り手に罪がある筈。――それともうぬが対手になろうとの所存かッ」
「うぬとは言葉がすぎる! 控えおろうぞ!」
「なにッ」
「とまあ叱って見たところで初まらぬと申すものじゃ。尊公はこちらの馬が先に挑みかかったゆえ、勘弁ならぬと仰せのようじゃが、肝腎かなめ、きいてうれしいところもそこじゃて、そこじゃて。夫《それ》、婦女子は慎しみあるを以て尊しとす。女、淫に走って自ら挑むは即ち淫婦なり、共に天を戴かずとな、女庭訓《おんなていきん》にも教えてあることじゃ。さればこそ、あれなる黒めも物の道理よく心得て、恋は牡より仕掛くるものと、花恥かしげに待ちうけた牝馬共に進んで挑みかかったのは、甚だうい奴と思うがどうじゃな。よしんば挑んだことが行状よろしからざるにしても、そこはそれ畜生じゃ。罪は決してこれなる若者にないと思うがいかがじゃな。身共も少し学問がありすぎて、御意に召さぬかな」
 召すにも召さないにも、こうやんわりと不気味に、しかも一向恐れ気もなく釣竿を肩にしたまま、大手|搦《から》め手両道から説き立てられては、いかに気負いの藩士でもぐッと二の句に詰ったのは当り前です。だが、返す言葉に詰ったからとて、今さらすごすごと引ッ込まれるわけのものではない。中の気短そうなひとりが、癇癪筋《かんしゃくすじ》に血脈《ちみゃく》を打たせながらせせら笑うと、退屈男のその言葉尻を捉えて、噛みつくように喰ってかかりました。
「ならば貴公、罪なき者は斬ってならぬ。罪あらば何者たりと斬っても差支えないと申すかッ」
「然り! 士道八則にも定むるところじゃ。斬るべしと知らば怯《ひる》まずしてこれを斬り、斬るべからずと知らば忍んでこれを斬らず、即ち武道第一の誉《ほまれ》なりとな。これもやはり御意に召さぬかな」
「かれこれ申すなッ、ならば目に物見せてやるわッ」
 罵り叫びざまに、さッと大刀抜き払うや否や、もろ手斬りに斬り払ったのは、若者と思いきや、挑みかかった黒鹿毛のうしろ脚です。
「か、可哀そうに! なにをなさります! なにをむごいことなさります!」
 打ちおどろいて、言う声もおろおろと若者が涙ぐんだのを、
「ざまをみろ! 罪あらば斬って差支えないと申したゆえ、罪ある馬を成敗したのじゃ。勝手に吠えるといいわッ」
 憎々しげに言ってすてると、ひらりと馬の背に打ち跨りながら一散走りでした。
「まてッ。馬鹿者! 待たぬかッ。馬鹿者!」
 同時に退屈男が呼び叫びながらそのあと追いかけていったが、もう遅い。対手は小憎らしいことにも馬上なのです。並木の松に砂塵を浴びせながら、すでにもう遠く街道の向うでした。
「ヘゲタレよ喃。あれこそまさしく京できいたヘゲタレじゃ」
 苦《に》が笑いしながらとって返すと、血の海の断末魔の悲しい嘶《いなな》きをつづけながら、のたうち苦しんでいる愛馬の首を、わが子のようにしッかと抱きかかえて、声も絶え絶えと嘆き悲しんでいた若者へ、詫びる[#「詫びる」は底本では「詑びる」と誤植]ように呼びかけました。
「許せ、許せ、身共の扱いようがわるかった。あのような情知らずの奴等と分らば、手ぬるく致すではなかったに、馬鹿念押して馬を成敗致すとは、奴なかなかに、味をやりおったわい。さぞ無念であろうが、嘆いたとて詮ないことじゃ。これなる馬の代りは、身共がもそッと名馬|購《あがな》い取ってつかわそうゆえ、もう泣くのはやめい。のう、ほら、早う手を出せ、足りるか足りぬかは知らぬが十両じゃ、遠慮のう受取ったらよかろうぞ」
「………」
「なぜ手を出さぬ。これでは足りぬと申すか」
「滅、滅相もござりませぬ。恵んで頂くいわれござりませぬゆえ、頂戴出来ませぬ……」
「物堅いこと申す奴よ喃。いわれなく恵みをうけると思わば気がすまぬであろうが、これなる黒鹿毛、身共に売ったと思わば、受取れる筈じゃ。早う手を出せ」
「いえ、なりませぬ。くやしゅうござりまするが、無念でもござりまするが、それかと言うて見も知らぬお方様から、そのような大金頂きましては、先祖に――、手前共先祖の者に対しても申しわけありませぬ」
「なに、では、その方の先祖、由緒深い血筋の者ででもあると申すか」
「いいえ、只の百姓でござります。家代々の水呑み百姓でござりまするが、三河者《みかわもの》は権現様《ごんげんさま》の昔から、意地と我慢と気の高いのが自慢の気風《きふう》でござりまする。それゆえ頂きましては――」
「いや、うれしいぞ、うれしいぞ、近頃ずんとまたうれしい言葉を聞いたものじゃわい。三河者は意地と我慢と気の高いが自慢とは、五千石積んでもきかれぬ言葉じゃ。なにをかくそう、身共の先祖も同じこの国育ち、そうきいては意地になっても取らせいではおかぬ。早う手を出せ」
「では、あの、お旦那様も――」
「そうよ。権現様御自慢の八万騎旗本じゃ」
「そうでござりましたか。道理でちッと――」
「ちッといかが致した」
「類のない御気性のお方と、男惚れしていたのでござります」
「男惚れとは申したな、いや話せるぞ、話せるぞ。ならばこれなる十両、惚れたしるしに取ると申すか」
「頂きまするでござります。頂きませねばお叱りのあるのは必定、それがまた三河育ちの御殿様達が御自慢の御気風でござりましょうゆえ、喜んで頂戴いたしまするでござります」
「いや申したな、申したな、なかなか気の利いたことを申す奴じゃ。ついでにもう十両遣わそう。そちらの十両は馬の代、こちらの十両は身共もそちへ惚れたしるしの結納金じゃ。これで少し胸がすッと致したわい。だが、それにつけても――」
 心憎いは今の二人です。
「目ざした先はまさしく東《あずま》じゃ。今より急いで追わばどこぞの宿《しゅく》で会うやも知れぬが、いずれの藩士共かな」
「薩摩の方々でござります」
「なに! 島津の家中《かちゅう》じゃと申すか」
「はっ。たしかにそれに相違ござりませぬ」
「とはまた、どうして知ってじゃ」
「どうもこうもござりませぬ。今日その島津様が参覲交替でお江戸入りの御道中遊ばします筈にござりまするゆえ、よく存じているのでござります。いいえ、手前ばかりではござりませぬ。何と申しまするか、御大藩の御領主様と申すものは兎角わがまま育ちでいられますのか、島津のお殿様がこの街道をお通りの折は、なにかと横道《おうどう》なお振舞いを遊ばしまして、お手討ちになったり、通行止めをされたり、ここらあたりの百姓共は毎度々々むごい迷惑をうけておりますゆえ、厄病神《やくびょうがみ》の御通りだなぞ申して、誰も彼もみんなお日どりから御時刻までもよう存じているのでござります。それゆえ、わたくしもまたつまらぬ災難に会うてはと存じまして、あのように急いで馬を洗いましたのに、とんだ悲しいことになったのでござります」
「ほほう、左様か。いかにもな、七十三万石と申さばなかなかに大禄じゃからな。島津の大守も大禄ゆえにいささか御慢心と見ゆるな。いや、そう承わっては――鳴って参った。急に血鳴りが致して参ったわい。家臣
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