道具があろう。江戸旗本早乙女主水之介、道中半ばに無心致して恐縮じゃが、刀にかけても借り逃げは致さぬゆえ、暫時拝借願いたいと、かように口上申してな、よく釣れそうな道具一揃い至急に才覚して参れ」
「呆れましたな。旦那のような変り種は臍《へそ》の緒《お》切って初めてでございますよ。まさかあっし共をからかうんじゃござんすまいね」
「その方共なぞからかって見たとて何の足しになろうぞ。荘子《そうし》と申す書にもある。興到って天地と興す、即ち王者の心也とな。道中半ばに駕籠をとめて釣を催すなぞは、先ず十万石位の味わいじゃ。遠慮なく整えて来たらよかろうぞ。早うせい」
実にどうもわるくない心意気です。即ち王者の心也とゆったり構えて、駕籠屋共に釣竿を才覚させながら、あの月の輪型の疵痕を夕暮れ近い陽ざしに小気味よく浮き上がらせつつ、そこの流れの岸におりて行くと、これで暫くは退屈が凌《しの》げそうだと言わぬばかりに、悠然と糸を垂れました。
だが、なかなかこれが釣れないのです。胆力衆に秀で、剣また並ぶ者なく、退屈することまた人に抜きん出て、どれもこれも人並み以上でないものはないが、釣ばかりはいかな早乙女主水之介も御意のままにならぬと見えて、手の届きそうなところにひらひらと泳いでいるのが見えながら、たやすく魚の方で対手になってくれないのです。
「わはははは、憎い奴じゃ。憎い奴じゃ。細《こま》い奴が天下のお直参をからかいおるわい。のう、駕籠屋、駕籠屋、こうならば身共も意地ずくじゃ、刀にかけても一匹釣らねばならぬ。折角これまでお供してくれたが、もう乗物は要らぬぞ」
「へ?……」
「へではない。このあんばいならば二三日ここを動かぬかも知れぬゆえ、もう駕籠に用はないと申すのじゃ。ほら、酒手も一緒につかわすぞ。早う稼ぎに飛んで行け」
おどろいたのは街道稼ぎの裸人足共でした。呑気というか、酔狂というか、板についたその変人ぶりにあきれ返って立ち去ったのを、しかし退屈男は至っておちつき払いながら、本当に釣れるまでは二日かかろうと三日かかろうと、一歩もここを動くまいと言わぬばかりで、次第に怪しく冴えまさって来た双の目をキラキラ光らせながら、しきりに小ハヤのあとを追い廻しました。――その最中。パッカ、パッカと街道のうしろから近づいて来たのは、どうやら駿馬《しゅんめ》らしい蹄《ひづめ》の音です。釣に心を奪われているかに見えたが、さすがに武人の嗜《たしな》みでした。
「ほほう、なかなかの名手じゃな」
早くもその蹄の音から余程の上手と察して、何物であろうかとふり返ったその目にくっきりと映ったのは、逞しやかな黒鹿毛に打ち跨った年若い農夫の姿です。しかもそれが見るからすがすがしい裸馬なのでした。その裸馬を若者は鮮かに乗りこなしつつ、パッカ、パッカと駈け近づいて来ると、ヒラリ馬をすてて、不意にいんぎんに退屈男へ呼びかけました。
「御清興中をお妨げ致しまして相済みませぬ。手前この近くの百姓でござります。川下で馬を洗いとうござりまするが、お差し許し願えませんでしょうかしら――」
「………?」
「あの、いかがでござりましょう? お差し許し願えませんでしょうかしら――」
「………?」
「いけませんようでしたら、明日に致しましてもよろしゅうござりまするが、いかがでござりましょう。お差し許し願えますようなら――」
「まて、まて。返事をせずにいたは、その方の人柄を観ておったのじゃ。そち、百姓に似合わずなかなか学問致しておるな」
「お恥しゅうござります。御領主様が御学問好きでござりますゆえ、ついその――」
「見様見真似でその方達までが寺子屋通い致すと申すか、何侯の御領内かは存ぜぬが、さだめし御領主は名君と見ゆるな。近頃心よい百姓に会うたものじゃ。苦しゅうない、苦しゅうない、存分に浴びさせてつかわしたらよかろうぞ」
「有難うござります。有難うござります。では御免下さりませ。――黒よ、黒よ、御許しじゃ。さぞ待ち遠であったろうな、今浴びさせて進ぜるぞ」
人に物言うごとくその愛馬をいたわりながら、木蔭に這入って衣類をぬぎすてると、腰に閃く源氏の御旗もさわやかに、健康そのもののような筋骨誇らけき全裸身を、夕《ゆうべ》の陽ざしに赤々と照らせながら、ヒラリ、裸の馬の背に打ち跨ったかと見るまに、水瀑躍る碧潭《へきたん》のすがすがしげな流れの中へ、サッと乗り入れました。
涼しさや、時雨《しぐれ》しあとの洗馬――。
俳人|味通《みつう》の句にある通りです。絵なら、水墨《すいぼく》ひと刷毛の力描き、水に躍る馬|逞《たくま》しく、背に手綱かいぐる人また逞しく、空は夕陽の鰯波《いわしなみ》にのどけく映えて、流れはさらに青々と愈々青く、飛沫もさらにまた涼しく躍り、まこと清涼、十万石の眺めでした。
「鮮かじゃ。鮮か
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