免なるあの月ノ輪型の向う疵と、諸羽流正眼崩《もろはりゅうせいがんくず》しのあのすさまじい剣脈で行くのです。
「しっとりと霧が降って、よい夜じゃ。京は霧までが風情《ふぜい》よ喃。駕籠屋! 帰りにどこぞで一杯参ろうぞ」
 などと江戸前の好もしくも風流なわが退屈男は、胆力すでに京一円を蓋《おお》い、気概また都八条を圧するの趣きがありました。
 だが、目ざしたその所司代番所へ行きついて見ると、これがなかなか左様に簡単には参らないのです。必死に駈けぬけて先廻りした二人が早くもその手配をしたのか、それとも夜はそうしておくのが所司代番所のならわしであるのか、門は元よりぴたりと一文字に堅く締め切って、そこには次のごとき威嚇顔の制札が見えました。

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   下乗《ゲジョウ》之事
禁中ヨリノ御使イ、並ビニ江戸
公儀ヨリノ御使者以外ニ夜中ノ
通行堅ク御差止メノ事
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 はっきりと禁裡御所からのお使い、並びに江戸お公儀からの使者以外は、夜中の通行堅くお差止めの事と書いてあるのです。無論その表書き通りであったら、たやすく開門させることは困難であろうと思われたのに、しかし退屈男は、まるでその制札なぞ歯牙《しが》にもかけないといった風でした。
「ほほう。賄賂《わいろ》止めの禁札があるな。よいよい、禁札破り致すのも江戸への土産《みやげ》になって面白かろうぞ。駕籠屋! 帰りのお客は珠数屋のお大尽様じゃ。たんまり酒手をねだるよう、楽しみに致して待っていろよ」
 一向に恐るる色もなく、その上なおどういう理由を以てか、容易ならぬその制札を至ってあっさり賄賂止めと言ってのけながら、珠数屋の大尽も亦すでにもう奪い返したごとき朗かさで、お供の者達をそこに待たしておくと、のっしのっしと近づきながら、いとも正々堂々と大音声《だいおんじょう》に呼ばわりました。
「物申そうぞ! 物申そうぞ! 直参旗本早乙女主水之介、当所司代殿に火急の用向きあって罷《まか》り越した。開門せいッ。開門せいッ」
 と同時でした。窺《うかが》うような足音と共に、そこの物見窓から、ぬッと顔をのぞかせたのは、まさしく先程うろたえながら抜け駈けしていった、あの役侍達二人です。否、のぞいたばかりではない。今ぞ初めてあかした直参旗本のその身分|素姓《すじょう》に、二人はしたたかぎょッとなったらしく、二重の狼
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