て、九本の刄を矢来目陣《やらいめじん》に備えながら、退屈男に押し迫ろうとしましたので、京弥が伺い顔に傍らから言いました。
「手間どってはあとが面倒にござりますゆえ、ちょっと眠らしてつかわしましょうか」
「そうのう、では、揚心流小出しにせい」
「はッ。――ちと痛いかも知れぬが、暫くの間じゃ。お辛抱召されよ」
 言いつつ、漆《うるし》なす濡れ羽色の前髪をちらちらとゆり動かして、すいすいと右と左へ体を躱《かわ》しつつ、駈け違ったかと見えましたが、左の及び腰になっていたのっぽを先ずぱったり、右のしゃちこばっていた薄汚ない奴をつづいてばたり、前の、目を血走らせていた蟹股《がにまた》を同じくばたり、いと鮮かに揚心流遠当てで、そこにのけぞらしました。
 とみて、笑止千万な者共です。はや腰を抜かして、へたへたと縁側に這いつくばりつつ逃げおくれた六松をひとり残して、誰先にとなく裏口へ逃げ走り去ったので、あとから追いかけようとした京弥を、退屈男は慌てて制しつつ呼び止めました。
「すておけ、すておけッ。六松さえ押え取らば、どこまで逃げ伸びようと、いずれはこちらのものじゃわ。深追いするな」
 逃げるままに逃がしておいて、やおら六松のところへ歩みよると、鋭くきき訊ねました。
「主人と言えば、親にもまさる大切なご恩人、然るにあの素浪人共の手先となって、毒蛇など仕掛けるとは何事じゃ。かくさず有体《ありてい》に申し立てろ」
「へえい……」
「へえいでは分らぬ。何の仔細あって、あのような憎むべき所業致しおった」
「………」
「強情を張りおるな。そら、ちと痛いぞ。どうじゃ、どうじゃ。まだ申さぬか」
「ち、ち、ち……、申します、申します。もう申しますゆえ、その頤《あご》をお押えなさっていらっしゃるお手を、お放し下されませ。――ああ痛てえ! いかにも、三十両の小判に目が晦《くら》みまして、つい大それたことを致しましたが、しかし、毒蛇を頼まれましたのは、今のあの市毛の旦那様じゃござんせんよ。そもそものお頼み手は、あの時うちの旦那様と先着を争ってでござりました、あの八条流の黒住団七様でござりまするよ」
「なにッ!?[#「!?」は横一列] そもそもの頼み手は黒住団七とな! いぶかしい事を申しおるが、まことの事かッ」
「なんの嘘偽りがござりましょうぞ。あの黒住の旦那様が、昔宇都宮藩で御同役だったとかいう市毛の旦那様と二人して、ゆうべこっそり手前を訪れ、あの毒蛇を鞍壺に仕掛けるよう、三十両の小判の山を積んで、手前を欲の地獄に陥し入れたのでござります。あの時鉄扇を投げつけたのも、やっぱりお二人様の企らみですぜ」
「なに!?[#「!?」は横一列] 鉄扇も二人の企らみとな? でも、あの時狙われた対手は、たしかに黒住団七と見えたが、それはまたどうした仔細じゃ」
「それがあの方達の悪智慧《わるぢえ》でごぜえますよ。もし、仕掛けた毒蛇でうまく行かねえようだったら、鉄扇でうちの旦那様を仕止めようと、前からお二人がちゃんと諜《しめ》し合って、今、ここにい合せた八人のご浪人衆に、それぞれ鉄扇を持たせて、どこからでも投げられるように、幔幕外《まんまくそと》のところどころへ忍ばせておいたのでござります。だからこそ、黒住の旦那様は、初めからそれをご存じでごぜえましたので、うまくご自身は身を躱《かわ》したんでごぜえますよ。さもあの方が狙われたように見せかけた事にしてからが、黒住の旦那様の悪智慧なんでごぜえまさあ。ああしてご自身をさもさも狙ったように見せかけて投げつけりゃ、事が起った場合、御番所の方々のお見込みが狂うだろうというんだね、なかなか抜け目のない悪企みをしたんでごぜえますよ」
「きけば聞く程奇怪な事ばかりじゃが、何のためにまた黒住団七めは、そのような悪企み致しおった」
「知れた事でござんさあ、あの時、降って湧いたように姿をお見せなすった、あの別嬪《べっぴん》の女の子が目あてだったのでごぜえますよ」
「なに!?[#「!?」は横一列] では、あれなる腰元、あの早駈けに勝を占めた者へお下しなさるとでも賭けがしてあったか」
「へえい。ご存じかどうか知りませぬが、あの別嬪の女の子は御台様付《みだいさまつき》の腰元中で、一番のご縹緻《きりょう》よしじゃとか申しましてな、お上様をあしざまに申し上げるようでごぜえますが、あの通り、御酔狂な御公方様の事でごぜえますので、ほかに何か下されりゃいいのに、別嬪を下げつかわすとおっしゃったものでごぜえますから、お腹黒い黒住の旦那が、女ほしさに、とうとうあんな悪企みをしたんでごぜえますよ。それっていうのが、手前方の旦那様があの四人のうちじゃ、一番の御名手でごぜえましたからね、それがおっかなくて、うちの旦那様だけを、ほかには罪もねえのにあんなむごい目にも遭わせる気になったんでごぜえます」
「馬鹿者ッ」
「へえい?」
「ずうずうしゅう、へえいとは何ごとじゃ。主人に危難来ると知らば、身を楯にしても防ぐベきが当り前なのに、自ら手伝って、死に至らしむるとは不埓者めがッ」
「へえい。それもこれも元はと言えば、バクチが好きのさせたわざ――、たった三十両の端《はし》た資本《もとで》に目が眩《くら》みまして、何ともはや面目次第もごぜえませぬ。この通り、もう後悔してござりますゆえ、お手やわらかに願います」
「虫のよい事申すな! 立てッ」
「へえい?」
「立てと申すに立たぬか」
「痛えい! 立ちますよ。立ちますよ。そんなにお手荒な事をなさらずとも、立てと言えば立ちますが、一体どこへ御引立てなさるんでござりますか」
「くどう申すな。行けッ」
 引立てながら道の途中で見つかったそこの自身番へ、小突き入れると、事もなげに言いました。
「この下郎めは、三十両の目腐れ金で、大切な主人の命を売った不埓者《ふらちもの》じゃ。早乙女主水之介、約束通り土産一匹つかわすとこのように申し伝えて、今ただちに南町御番所の水島宇右衛門なる与力の許へ引立てて参れ」
 言いおくと、通り合わせた町駕籠を急ぎに急いで仕立てながら、京弥いち人のみを引き随えて、ただちに黒住団七の禄を喰《は》む、宇都宮九万石の主、奥平美作守昌章《おくだいらみまさかのかみまさあき》の上屋敷に行き向いました。またこれが許しておかれる筈はない。わが江戸旗本中の旗本男たる早乙女主水之介の三河ながらなる正義観において、憎むべき黒住団七が許しておかれる筈はないのです。よし仮りに、奥平美作守が、九万石封主の力を借りて、これを庇《かば》い立てすることあるも、われわれにはまた直参旗本の威権あり! 篠崎流奥義の腕にかけても、やわか許すまじと、真に颯爽としながら打ち乗って、一路、美作守上屋敷なる麻布《あざぶ》六本木へ急がせました。

       四

 行くほどに青葉がくれの陽はおちて、ひたひたと押し迫ったものは、夕六ツ下がりの紫紺流した宵闇です。
 然るに、こはそも何ごとぞ!――まだそんな門限の刻限ではないのに、さながら退屈男の乗り込んで行くのを看破りでもしたかのごとく、奥平屋敷の江戸詰藩士小屋を抱え込んだお長屋門が、ぴたりと閉じられてありましたので、乗りつけるや、怒髪《どはつ》して退屈男が呼び叫びました。
「早乙女主水之介、直参旗本の格式以て罷《まか》りこした。早々に開門せい!」
 だのに、答えがないのです。
 とみるや、ひらり一|蹴《しゅう》!
「面倒じゃ。開けねばこうして参るぞ!」
 ぱッと土を蹴って、片手|支《ささ》えに、五尺の築地塀上《ついじべいうえ》におどり上がりながら、ふと、足元の門奥に目をおとしたとき!
 ――見よ!
 そこに擬《ぎ》せられているのは、意外にも、十数本の槍先でした。それに交って六本の刄襖《はぶすま》! しかも、その六本の白刄《はくじん》を、笑止千万にも必死に擬していたものは、ほんの小半時前、根津権現裏のあの浪宅から、いずれともなく逐電《ちくでん》した筈の市毛甚之丞以下おろかしき浪人共でしたから、門を堅く閉じ締めていた理由も、うしろに十数本の槍先を擬しているものの待ち伏せていた理由《わけ》も、彼等六人の急を知らせたためからであったかと知った退屈男は、急にカンラカンラ打ち笑い出すと、門の外に佇んだままでいる京弥に大きく呼びかけました。
「のう京弥々々! ちとこれは面白うなったぞ。早うそちもここへ駈け上がってみい!」
「心得ました。お手かし下されませ」
 退屈男のさしのべた手にすがりついて、これも身軽にひらり塀の上におどり上がったとみえましたが、中の意外な光景に打たれたとみえて、ややおどろきながら叫びました。
「よおッ。あの六人が先廻りしておりまするな!」
「のう。よくよく斬って貰いたいと見ゆるわ。久しぶりに篠崎流を存分用いるか」
「はッ。けっこうでござりまするが、うしろの槍はなんとした者共でござりましょうな」
「言うがまでもない。あの真中にいるのが、確かに昼間見かけた黒住団七じゃ。思うに、同藩のよしみじゃとか何とか申して、はき違うべからざる武士道をはき違えおる愚か者共じゃろうよ」
「笑止千万な! では、手前も久方ぶりに揚心流を存分用いて見とうござりますゆえ、お助勢お許し下されませ」
「ならぬ」
「なぜでござります」
「退屈男の名前が廃《すた》るわ。そちはこれにてゆるゆる見物致せ」
 言うや、ひらり、体を浮かしたとみえましたが、およそ不敵無双です。槍、剣《つるぎ》、合わしたならば二十本にも余る白刄の林の中へ、恐るる色もなくぱッとおどりおりました。
 しかも自若《じじゃく》としてそこに生えたるもののごとくおり立つと、腰の物を抜き合わそうともせず、あの凄艶《せいえん》無比な額なる三日月形の疵痕を、まばたく星あかりにくっきり浮き上がらせながら、静かに威嚇して言いました。
「よくみい! この疵痕がだんだん怖うなって参るぞ。抜かば斬らずにおけぬが篠崎流の奥義じゃ。いってもよいか」
 しかし、相手の前衛を勤める六人の浪人共は、今、もう必死とみえて、いずれも呼吸のみ荒めながら無言でした。
「ほほう。大分、胸に波を打たせて喘ぎおるな。しかし、真中の市毛甚之丞! そちには小塚ッ原で、獄門台が待っているゆえ、今宵は生かしておいてつかわすぞ。では、左の二人、参るぞ」
 物静かに呟きながら、大きく腰がひねられたかと見えた途端!――きらり、玉散る銀蛇が、星月宵にしゅッと閃めいたと見えるや、実にぞっと胸のすく程な早技でした。声もなく左の二人が、言った通りそこへぱたり、ぱたりとのけぞりました。同時に退屈男の涼しげな威嚇――。
「みい!――今度は右側の三人じゃ。参るぞ」
 言いつつ、片手正眼に得物を擬して、すい、すい、と一二歩近よったかと思われましたが、殆んどそれと同時でした。
「生兵法を致すゆえ、大切な命をおとさねばならぬのじゃ。そら! 一緒に遠いところへ参れ」
 一歩、さらにずいと歩みよって、右へ一閃。
「早うそちも行けッ」
 つづいてまたすいと歩みよって、さらに一閃。
「主水之介とは段が違うわ。急いでそちも地獄へ参れ!」
 そして、不敵にも刄《やいば》を引きながら、しゅッしゅッと一二遍、血のりの滴《しずく》を振り切っておきながら、至って物静かに市毛甚之丞に言いました。
「みい! これが主水之介の正眼くずしじゃ。段々とあとへ下がりおるが、怖うなったか」
 威嚇しながら、同じくすいすいと歩み近よったかと思われましたが、同時に大喝《だいかつ》!
「馬鹿者ッ。今、御番所へ土産《みやげ》に持たしてやるゆえ、暫くここで休息せい!」
 峯を返しながら、急所の脳天《のうてん》を軽く打っておいて、莞爾《かんじ》と打ち笑いながら、うしろに控えていた真槍隊《しんそうたい》に言い呼ばわりました。
「江戸旗本は、斬ると言うたら必ず斬るぞ。主君の馬前に役立てなければならぬ命を、無用な意地立てで粗末に致すつもりかッ。逃ぐる者は追わぬ。逃げたくば今のうちに早う逃げえいッ」
「………」
 いずれもやや暫し無言でしたが、退屈男の冷厳な訓戒と、その眉間傷《みけんきず》の何にもまさる威嚇に
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