血の垂れおるを存じおるか」
「えッ?」
「それみい! それ程ののぼせ方で、主水之介に酔狂呼ばわりは片腹痛いわ」
 にわかにうろたえ出した町役人共を尻目にかけて、怪死を遂げた古高新兵衛の骸《なきがら》に近よりながら、先ず鉄扇で打たれた脇腹を打ち調べてみると、然るにこれがますます不審です。当然そこが血の出所でなければならぬと思われたのに、肝腎な脇腹には一向それらしい傷跡すらも見えなくて、全然予想以外の丁度鞍壺に当る内股のところから、それも馬乗り袴を通して、ベっとりと疑問の生血が滲み出ていましたので、愈々いぶかりながら見調べると、事実はますます出でてますます不思議! 生々と血の垂れ滲み出ているその傷口が、袴の外から何物かに、あんぐりと噛み切られでもしたかのような形をしていましたので、主水之介の目の鋭く光ったのは当然でした。
 ただちに馬の鞍壺を見改めると、愈々出でて愈々奇怪!――思うだにぞっと身の毛のよだつ毒毒しい生蛇が、置き鞍の二枚皮の間から、にょっきりと鎌首を擡《もた》げていたのです。しかも、それが只の毒蛇ではなく、ひと噛みそれに襲われたならば、忽ち生命を奪われると称されている大島産の恐るべき毒蛇金色ハブでしたから、いかな退屈男も、これにはしたたかぎょっとなりました。無理もない。ぎょっとなったのも、またおよそ無理のないことでした。事実は計らずもここに至って、二つの奇怪な謎を生じたわけだからです。第一は黒住団七を狙った鉄扇の投げ手。第二は毒蛇を潜ませて、古高新兵衛を害《あや》めた下手人。しかも、それが同一人の手によって行なわれたものか、全然目的を異にした二つの見えざる敵が、めいめい別々に二人の騎士を狙って、それが危害を加えようとしたものか、謎は俄然いくつかの疑問を生んで参りましたので、退屈男の蒼白だった面に、ほのぼのと血の色がみなぎりのぼりました。
「のう、こりゃ、町役人」
「………」
 畠違いの者が邪魔っけだと言わぬばかりに罵ったその広言の手前、いたたまれない程に恥ずかしくなったものか、さしうつむいて返事も出来ずにいるのを、笑い笑い近よると、揶揄するように言いました。
「真赤になっているところをみると、少しは人がましいところがあるとみゆるな。わしはなにもそち達の邪魔をしようというのではない。只、退屈払いになりさえすればよいゆえ、手伝うてつかわすが、どちらの番所の者じゃ。北町か、南町か」
「………」
「食物が悪いとみえて、疑ぐり深う育っている喃。そち達の瘠せ手柄横取りしたとて、何の足しにもなる退屈男でないわ。姓名を名乗らば下手人見つかり次第進物にしてつかわすが、何と申す奴じゃ」
「南町御番所の与力《よりき》、水島宇右衛門と申しまするでござります」
「現金な奴めが。了見の狭いところが少し気に入らぬが、力を貸してつかわすゆえに、家へ帰ったならば家内共に熱燗《あつかん》でもつけさせて、首長う待っていろよ」
 退屈男らしく皮肉を残しておくと、京弥を随えながら、なにはともかくと、中間馬丁達の詰め所にやって行きました。
 無論その目的は、疑問の怪死を遂げた古高新兵衛の馬丁について、何等かあの金色《こんじき》ハブの手掛りを嗅ぎつけようと言うつもりからでしたが、然るに、それなる馬丁が甚だ不都合でした。主人が横死をしたというのに、その現場へ姿を見せない事からして大きな不審でした。行ってみるとさらに大きな疑雲を残して、いずれかへ逸早く姿をかくしたあとでしたから、退屈男の言葉の鋭く冴えたのは言うまでもないことでした。
「いつ頃|逐電《ちくでん》いたしたか存ぜぬか!」
「ほんの今しがたでござりましたよ」
「今しがたにも色々あるわ。いつ頃の今しがたじゃか、存ぜぬか」
「古高様のあのお騒ぎが起きますとすぐでござりましたよ。どうした事か急に色を変えて、まごまごしていたようでござりましたが、気がついて見ましたら、もう姿が見えませんでしたゆえ、手前共もいぶかしんでいる次第でござります」
 突如としてここに疑惑の雲が漂って参りましたので、あの凄艶な疵跡に、不気味な威嚇を示しながら、わけもなく打ちふるえている馬丁共をじろじろと見眺めていましたが、その時ふと退屈男の目を鋭く射たものは、そこに置き忘れでもしたかのごとくころがっている本場|鹿皮印伝《しかがわいんでん》の煙草入でした。中間馬丁と言えば、いかに裕福な主人についていたにしても、精々先ず年額六両か七両が関の山の給料です。然るにも拘わらず、まがい物ならぬ本物の印伝皮で揉《な》めしこしらえた贅沢きわまる煙草入がころがっていましたものでしたから、いかで退屈男の逃すベき!
「これなる煙草入は何者の持ち品じゃ!」
「おやッ。野郎め、あんなに自慢していやがったのに、よっぽど慌てやがったとみえて、大切《たいじ》な品を忘れて行きやがったね。古高様の中間の六松めが、さっき見せびらかしていた品でごぜえますよ」
 もっけもない事を言いましたので、何気なく手にとりあげて、とみつこうみつ打ち調べているとき、ころり、と叺《かます》の中から下におちたものは、丁半バクチに用いる象牙細工の小さな賽《さい》ころです。
「ほほう、そろそろ筋書通りになって参ったな」
 言いつつ、うそうそと微笑を見せていましたが、実に猪突でした。
「病《やまい》というものは仕方がのうてな、身共も至ってこの賽ころが大好物じゃが、その方共が用いるところはどこの寺場じゃ」
「ふえい?……」
「なにもそのように頓狂な声を発して、おどろくには当らないよ。こればッかりは知ったが病、久しぶりでちと弄《なぐさ》みたいが、いつもどこの寺場で用いおるか」
「ご冗談でござりましょう。お見かけすればお小姓をお召し連れなさいまして、ご身分ありげなお殿様が、賽ころもねえものでごぜえますよ。いい加減なお弄《なぶ》りはおよしなせえましな」
「疑ごうていると見ゆるな。身分は身分、好物は好物じゃ。ほら、この通りここに五十両程用意して参っているが、これだけでは資本《もとで》に不足か」
 ちゃりちゃりと山吹色を鳴らしてみせましたので、笑止なことには根が下司《げす》な中間共です。
「はあてね。いい色していやがるね。じゃ、あの、本当にこれがお好きなんでごぜ[#「ぜ」は底本では「ざ」と誤植]えますかい」
 小判の色に誘惑でもされたもののごとく、ついうっかりと警戒を解きながら、乗り気になって来たので、すかさずに退屈男が油をそそぎかけました。
「下手の横好きと言う奴でな。ついせんだっても牛込の賭場で、三百両捲き上げられたが、持ったが病で致し方のないものさ。これだけで足りずば屋敷へ使いを立てて、あと二三百両程取り寄せても苦しゅうないが、存じていたら、そち達の寺場に案内せぬか」
「そりゃ、ぜひにと言えばお教え申さねえわけでもござんせぬが、実あ、こないだうちここへ御主人のお供致しまして、馬馴らしに参りますうちに六松と昵懇《じっこん》になって、あいつの手引で行くようになったんでごぜえますからね。そうたびたび弄《なぐさ》みに参ったわけじゃござんせんが、寺場って言うのがちっと風変りな穴なんでごぜえますよ」
「どこじゃ。町奴共の住いででもあるか」
「いいえ、手習いの師匠のうちなんでごぜえますよ」
「なに! 手習いの師匠とな! では、浪人者じゃな」
「へえ。元あ、宇都宮藩のお歴々だったとか言いましたが、表向きゃ、手習いの看板出して、内証にはガラガラポンをやるようなご浪人衆でごぜえますもの、なんか曰くのある素性《すじょう》でごぜえましょうよ」
「住いはいずこじゃ」
「根津権現《ねずごんげん》の丁度真裏でごぜえますがね」
 きくや同時でした。
「馬鹿者共めがッ」
 言いざま、前に居合わした中間二人を、ぱんぱんと取って押えておくと、鋭く京弥に命じました。
「急いでそち、あとの二人を取って押えろッ。こ奴共も、六松とやらいうた怪しい下郎と同じ穴の貉《むじな》やも知れぬ。いぶかしい手習師匠の住いさえ分らば、もうあとは足手纒《あしでまとい》の奴等じゃ。押えたならば、どこぞそこらへくくりつけておけッ」
 自身の押えた二人をも、手早くそこの柱に窮命《きゅうめい》させておくと、六松の逐電先《ちくでんさき》をつき止めるべく、ただちに根津権現裏目ざして足を早めました。

       三

 行きついてみると、いかさま言葉の通り、算数手習い伝授、市毛甚之丞と看板の見える一軒が労せずして見つかりましたので、在否やいかにと、先ず玄関口にそっと歩みよりながら、家内の様子を見調べました。
 と――、いぶかしや、そこに見えたのは、八足ばかりの雪駄です。子供のものならば商売柄不思議はないが、いずれも大人履《おとなば》きでしたから、退屈男に何の躊躇があるべき――案内も乞わず、ずかずか上って行くと、さッと奥の一間の襖を押しあけながら、黙然と敷居ごしに佇んだままでぐるり部屋の内を見眺めました。
 一緒に目を射た八人の者の姿! いずれも五分月代《ごぶさかやき》の伸び切った獰猛《どうもう》なる浪人者です。その八人に取り巻かれて、床の間を背にしているのが、目ざした手習い師匠の市毛甚之丞であるらしく、そしてまたその市毛甚之丞の傍らに奴姿《やっこすがた》をして控えているのが、これぞ逐電先を追い求めてやって来たところの、古高新兵衛馬丁六松であることは、一目にして瞭然でした。
 然るに、それなる十人の者どもが、殊のほか不審でした。ぐるりと車座になっていましたので、聞いて来た通り、丁半開帳の最中ででもあるかと思いのほかに、中間六松をのぞいての九人の者が、何をこれからどうしようというのか、いずれも腰の業物《わざもの》を抜きつれて、各自それぞれに刀身へ見入りつつ、見るから妖々とした殺気をそこにみなぎらしていましたので、退屈男のいぶかしく思ったのは当然、いや、より以上に打ちおどろいたのは、十人の面々でした。ぎょッとたじろいだようにいずれも面《おもて》をあげて、一斉に退屈男の上から下を見あげ見おろしていましたが、中なるひとりが早くもあの額際のぐっと深く抉られた三日月形で気がついたものか、その顔を蒼めて言い叫びました。
「さては、早乙女主水之介じゃな!」
 しかし、退屈男は無言でした。黙然と両手を懐中にしたままで、じっと九人の者を静かに只にらめすえたばかり――。
 とみて、苛立ったごとくに、いな、むしろ、無言のその威嚇に不気味さが募りまさったもののごとくに、甚之丞がじろじろと今迄見改めていた強刀を引きよせると、同じく唇まで蒼めながら叫びました。
「案内も乞わず何しに参った!」
 きくや、依然ふところ手のままで、ほのぼのとした微笑をその唇にのせていましたが、冷たく錆のある太い声が、ようやく主水之介の口から重々しく放たれました。
「退屈払いに参ったのじゃ、びっくり致したか」
「なにッ? 何の用があってうしゃがったんだ!」
「血のめぐりがわるい下郎共よ喃。退屈男が御手ずから参ったからには、只用ではない。それなる中間の六松に用があるのじゃ」
 途端――。
 市毛甚之丞が、ちらり八人の者になにか目くばせしたかと見えましたが、同時でした。
「そうか。六松に用あってうしゃがったと分りゃ、あの毒蛇の一件を嗅ぎつけやがったに相違ねえ。各々ッ、いずれはこんなことにもなるじゃろうと存じて、今、お腰の物にも研ぎを入れて貰うたのじゃ。出がけの駄賃に、それッ、抜かり給うなッ」
 問いもしないうちに、うろたえながら毒蛇の一件を言い叫ぶと、下知と共に素早く六松をうしろへ庇《かば》いながら、八人の者へ助勢を促したので、退屈男の色めき立ったのは言う迄もないことでしたが、しかし、両手は依然懐中のまま――。そして、静かに威嚇いたしました。
「馬鹿者共めがッ。江戸御免の篠崎流正眼崩しを存ぜぬかッ。その菜切《なっき》り庖丁をおとなしゅう引けッ」
 だのに、身の程もわきまえぬ鼠輩共《そはいども》です。蟷螂《とうろう》の竜車《りゅうしゃ》に刄向うよりもなお愚《おろ》かしき手向いだてと思われるのに、引きもせずじりじりと、爪先立ちになっ
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