、将軍家御面前で名騎士達が駈け競うというのでしたから、なにさま当日第一の呼びものとなったのもゆえあることでしたが、やがてのことに試合始めの太鼓につれて、大坪流の古高新兵衛は逞《たくま》しい黒鹿毛《くろかげ》、八条流の黒住団七は連銭葦毛《れんせんあしげ》、上田流の兵藤十兵衛は剽悍《ひょうかん》[#ルビの「ひょうかん」は底本では「しょうかん」と誤植]な三|歳《さい》栗毛《くりげ》、最後に荒木流の江田島勘介は、ひと際逞しい鼻白鹿毛《はなじろかげ》に打跨りつつ、いずれも必勝の気をその眉宇《びう》にみなぎらして、ずらりそこに馬首を打ち揃えましたものでしたから、犬公方初め場内一統のものが、等しくどよめき立ったのは当然なことでした。
 剣を取っては江戸御免の退屈男も、馬術はまた畠違いでしたから、ひと膝乗り出して京弥に囁きました。
「打ち見たところいずれも二十七八の若者揃いのようじゃが、こうしてみると一段とまた馬術も勇ましい事よ喃」
「御意にござります。中でも葦毛の黒住団七殿と、黒鹿毛の古高殿がひと際すぐれているように存じられますな」
「左様、あの両名の気組はなにか知らぬが少し殺気立っているようじゃな」
 言っているとき、場内の者が一斉にざわめき立ったので、ふと、目を転ずると、これ迄はどこにひとりも女性《にょしょう》の影すら見えなかったのに、今となって、どうしたと言うのであろう?――大奥付の腰元らしい者は者でしたが、ようよう二十《はたち》になるやならずの、目ざめるばかりの美形《びけい》がいち人、突如として正面お座席近くに姿をみせて、文字通り万緑叢中紅一点のあでやかさを添えましたので、いぶかしさに打たれながら主水之介も目を瞠《みは》っていると、四人の騎士がさらに奇態でした。美人現るると見ると、色めき立ちつつ、一斉に気負い出したので、早くもそれと推定がついたもののごとく、微笑をみせたのは退屈男です。
「ほほう、ちとこれは面白うなったかな。御酔狂な犬公方様の事ゆえ、あれなる美形に何ぞ謎がかかっているかも知れぬぞ」
 呟いたとき――、ドドンと打ち鳴らされたものは、馬首揃えろ! の締め太鼓です。つづいてドンと一つ、大きく鳴るや一緒で、おお見よ!――四つの馬は、鞍上《あんじょう》人《ひと》なく、鞍下《あんか》に馬なく、青葉ゆらぐ台町馬場の芝草燃ゆる大馬場を、投げ出された黒白取り取りの鞠《まり》のように駈け出しました。
 第一周は優劣なし!
 第二周目も亦同じ。
 しかし、第三周目に及んだとき、断然八条流の黒住団七と、大坪流の古高新兵衛の両頭が、三馬身ずつあとの二人を抜きました。つづいて第四周目に及んだとき、さらに両名は二馬身ずつうしろの二人を抜いて、黒白両頭の名馬は、一進一退馬首を前後させながら、次第に第五周目の決勝点に迫りつつあったので、大坪流の古高勝名乗りをうけるか、八条流の黒住勝つか、場内の者等しく手に汗を握ったとき! ――だが、突如としてここに、予想だにもしなかった呪うべき椿事《ちんじ》が勃発したのです。先頭を切りつつあった古高、黒住の両名が、あと半周りで最後の決勝点へ這入ろうとしたその曲り目の一般席前までさしかかった時でしたが、見物席中からであったか、それともうしろの幔幕外《まんまくそと》からであったか、一本の鉄扇がヒュウと唸りを発しつつ、たしかに葦毛の黒住団七めがけて、突如矢のように飛んで来ると、あわやと思ったあいだに、結果は意外以上の意外でした。気がついたものかそれとも偶然からか、狙われた団七がふと首をすくめたので、危うく鉄扇がその身体の上を通り越しながら、丁度並行して大坪流の秘術をつくしつつあった右側向うの、黒住団七ならぬ古高新兵衛の脇腹に、はッしと命中いたしました。
 ために古高新兵衛はドウと顛落《てんらく》落馬したことは勿論のこと、そのまに危うく難を避け得た黒住団七が凱旋将軍のように決勝点へ駈け入りましたが、しかし、場内はこの思いもかけぬ椿事のためにいずれも総立ちとなって、将軍家におかせられては御不興気にすぐさま御退出、曲者《くせもの》捕《とら》えろッ、古高新兵衛を介抱しろッ、どうしたッ、何だッ、と言うようなわめき声が八方に上がりまして、ついに折角の御前試合も、忽ち騒然、右往左往と人が飛び交いつつ、見る見るうちに場内はおぞましき修羅の巷と化してしまいました。
 とみて、わが退屈男の色めき立ったのも勿論です。
「のう、京弥!」
「はッ」
「最初からそれなる両名、特に殺気立っていたようじゃったが、先程試合前にあの美形が天降ったあたりといい、何ぞまた退屈払いが出来るやも知れぬぞ」
「いかさま様子ありげにござりまするな。念のために一見致しましょうか」
「おお、参ってみようぞ。要らぬ詮議立てじゃが、この木の芽どきに生欠伸《なまあくび》ばかりして
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