無比な額なる三日月形の疵痕を、まばたく星あかりにくっきり浮き上がらせながら、静かに威嚇して言いました。
「よくみい! この疵痕がだんだん怖うなって参るぞ。抜かば斬らずにおけぬが篠崎流の奥義じゃ。いってもよいか」
 しかし、相手の前衛を勤める六人の浪人共は、今、もう必死とみえて、いずれも呼吸のみ荒めながら無言でした。
「ほほう。大分、胸に波を打たせて喘ぎおるな。しかし、真中の市毛甚之丞! そちには小塚ッ原で、獄門台が待っているゆえ、今宵は生かしておいてつかわすぞ。では、左の二人、参るぞ」
 物静かに呟きながら、大きく腰がひねられたかと見えた途端!――きらり、玉散る銀蛇が、星月宵にしゅッと閃めいたと見えるや、実にぞっと胸のすく程な早技でした。声もなく左の二人が、言った通りそこへぱたり、ぱたりとのけぞりました。同時に退屈男の涼しげな威嚇――。
「みい!――今度は右側の三人じゃ。参るぞ」
 言いつつ、片手正眼に得物を擬して、すい、すい、と一二歩近よったかと思われましたが、殆んどそれと同時でした。
「生兵法を致すゆえ、大切な命をおとさねばならぬのじゃ。そら! 一緒に遠いところへ参れ」
 一歩、さらにずいと歩みよって、右へ一閃。
「早うそちも行けッ」
 つづいてまたすいと歩みよって、さらに一閃。
「主水之介とは段が違うわ。急いでそちも地獄へ参れ!」
 そして、不敵にも刄《やいば》を引きながら、しゅッしゅッと一二遍、血のりの滴《しずく》を振り切っておきながら、至って物静かに市毛甚之丞に言いました。
「みい! これが主水之介の正眼くずしじゃ。段々とあとへ下がりおるが、怖うなったか」
 威嚇しながら、同じくすいすいと歩み近よったかと思われましたが、同時に大喝《だいかつ》!
「馬鹿者ッ。今、御番所へ土産《みやげ》に持たしてやるゆえ、暫くここで休息せい!」
 峯を返しながら、急所の脳天《のうてん》を軽く打っておいて、莞爾《かんじ》と打ち笑いながら、うしろに控えていた真槍隊《しんそうたい》に言い呼ばわりました。
「江戸旗本は、斬ると言うたら必ず斬るぞ。主君の馬前に役立てなければならぬ命を、無用な意地立てで粗末に致すつもりかッ。逃ぐる者は追わぬ。逃げたくば今のうちに早う逃げえいッ」
「………」
 いずれもやや暫し無言でしたが、退屈男の冷厳な訓戒と、その眉間傷《みけんきず》の何にもまさる威嚇におじ毛立ったか、じり、じりと、どこからとなく槍の林が、うしろに逃げ足立ったかとみるまに、ばらばらと隊形が総崩れとなりました。
 しかし、それと知った一瞬!
「余の者は逃がしてつかわすが、その方だけは退屈男の武道が許せぬわ」
 痛烈に叫びざま、黒住団七のあとに追い近づいたかと思われましたが、およそ団七こそは武人の風上《かざかみ》にもおけぬ奴でした。笑止や武士には第一の恥辱たる後傷をだッとその背に浴びて、声もなくどったりとそこにうっ伏しました。
 ――ほっと息をついて、退屈男はやや暫し黙然。ほんとうに、黙然とやや暫し、そこに佇《ただず》みながら、血刀をさげたままで、何ごとか沈吟しているもののようでしたが、と見て、塀の上からおどりおりつつ、駈けよって来た京弥を見迎えながら、突如、わびしげに、呟くごとく言いました。
「あそこに倒れおる市毛甚之丞と、これなる死骸となった黒住団七の両名を、駕籠にでも拾い入れて、約束通り南町御番所の水島宇右衛門めへ土産に送ってつかわせ」
「送るはよろしゅうござりまするが、お殿様はいかがなさろうとおっしゃるのでござります」
「少し寂しゅうなったわ。退屈じゃ、退屈じゃと思うていたが、今となって思い返してみると、やはり人が斬りたかったからじゃわ。――しかし、もう斬った。久方ぶりにずい分斬った。そのためか、わしはなんとのう心寂しい! ――では、ずい分堅固で暮らせよ。菊路をも天下晴れて存分にいとしんでつかわせよ」
「ま! おまち下されませ!……どこへお越しになるのでござります。お待ち下されませ! どこへお越しになるのでござります!」
 おろおろして、後を京弥が追いかけましたが、しかし、江戸名物旗本退屈男は、ふり返ろうともしないで、黙然と打ちうなだれながら、とぼとぼと闇の向うへ歩み去りました。



底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:M.A Hasegawa
2000年6月29日公開
青空文庫作成ファイル:
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