口惜しさを残して、屋敷の外へ御用提灯が遠のいていったので、風体怪しき血まみれ男が、ぺこぺこ礼を言ってそのまま疾風のごとく闇に消えようとしたのを、
「まてッ。そちにはまだ大事な用があるわ」
 鋭く主水之介が呼び止めながら、のそりのそりと庭先へ降りて行くと、ぎょッとなったようにして立ち止まっている件《くだん》の男の側に歩み寄ったかと見えましたが、ここら辺もまた退屈男の常人《じょうじん》でない一面でした。
「町役人とてもこれをこの分ではさしおくまい。わしとても亦その方をこの分で野に放つのは、いささか気懸りゆえ、また会うかも知れぬ時迄の目印しに、これをつけておいてつかわそうよ」
 言うか言わぬかのうちに、およそ冴えにも冴えまさった武道手練の妙技です。しゅッと一|閃《せん》、細身の銀蛇《ぎんだ》が月光のもとに閃めき返るや一緒で、すでにもう怪しの男の頤先《あごさき》に、ぐいと短く抉《えぐ》った刀疵が、たらたら生血《なまち》を噴きつつきざまれていたので、
「痛えッ、疑ぐり深けえ殿様だな」
 不意を衝かれて男が言い叫んでいましたが、主水之介が言ったごとく、どうも少し気にかかる奴でした。言いつつむささびのように身を翻えすと、もう姿が闇の中に吸い込まれていったあとでした。

       二

 かくしてその三日目です。
 花の雲、鐘は上野か浅草かのその花はもう大方散りそめかけていましたが、それだけに今ぞ元禄の江戸の春は、暑からず寒からず、まこと独り者の世に退屈した男が、朝寝の快を貪るには又とない好季節でしたから、お午近く迄充分に夢を結んで、長々と大きく伸びをしていると、襖の向うで言う声がありました。
「お目醒めでござりましたか」
「京弥か」
「はッ」
「菊に用なら、ここには見えぬぞ」
「何かと言えばそのように、お冷やかしばかりおっしゃいまして、――お目醒めにござりますれば、殿様にちと申し上ぐべき事がござりまして参じましたが、ここをあけてもよろしゅうござりまするか」
「なに、殿様とな? 兄と言えばよいのに、他人がましゅう申して憎い奴じゃな。よいよい、何用じゃ」
「実は今朝ほど、御門内にいぶかしい笹折りが一包み投げ入れてでござりましたゆえ、早速一見いたしましたところ、品物は大きな生鯛でござりましたが、何やら殿様宛の手紙のような一事が結びつけてござりますゆえ、この通り持参してござります」
「……? ほほう、いかさま大きな鯛じゃな。手紙とやらは開けてみるも面倒じゃ、そち代って読んでみい」
「大事ござりませぬか」
「構わぬ、構わぬ」
「………?」
「いかが致した。首をひねっているようじゃが、なんぞいぶかしい事でも書いてあるか」
「文字がいかにも奇態な金釘流にござりますゆえ、読み切れないのでござります――いえ、ようよう分りました――ごぜん、せんやは、たいそうもねえ御やっかいをかけまして、ありがとうごぜえやした。じきじき、お礼ごん上に伺うが定《じょう》でごぜえやすが、さすればまたおっかねえものが、あごのところへ飛んで来るかも存じませぬゆえ、ほんのお礼のしるしに、ちょっくらこれを投げこんでおきやした。お口に合わねえ品かも存じませぬが、性《しょう》はたしかの生の鯛、気は心でごぜえやすから、よろしくお召し上がり下せえまし――と、このように書き認めてござります」
「ほほうそうか。贈り主は前夜のあの怪しい血まみれの男じゃな。それにしてはちと義理固すぎるようじゃが、どれどれ、鯛をもっとこちらへ。よこしてみせい」
 何気なく近よせて、何気なく打ちのぞいていましたが、じろりと一|瞥《べつ》するや、まさにその途端です。
「はて、いぶかしい。魚が口から黒血を吐きおるぞッ」
「えッ、黒血でござりますとな!?[#「!?」は横一列]」
「みい! 尾鰭《おひれ》も眼も生々と致して、いかさま鮮魚らしゅう見ゆるが、奇怪なことに、この通り口からどす黒い血を吐き垂らしておるわ。それに贈り主がちと気がかりじゃ。まてまて、何ぞ工夫をしてつかわそう――」
 言いつつ何やら考えていましたが、のっそり立ち上がって庭先へ呼び招いたのは下僕でした。
「こりゃ、七平、七平!」
「へえい――御用でござりましたか」
「その辺の原っぱにでも参らば、どこぞに、野良犬かどら猫がいるであろう。御馳走してつかわす品があるゆえ、早速|曳《ひ》いて参れ」
 すぐに走り出していった様子でしたが、程経て下僕が、一匹の見るからに剽悍《ひょうかん》無比などら猫を曳いて帰ったので、退屈男は手ずからそれなる不審の鯛をとりあげると、笹折ごとに投げ与えました。飢えたるところへ、好物の生魚がやにわと降って来たので、何条野良猫に躊躇《ちゅうちょ》があろう! 野蛮な唸り声を発しつつ、がぶりと勇壮に噛みつくと、見る見るうちに目の下一尺もあろうと思われ
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