夫にござります。では、すぐさま手配をいたしまして、のち程またお屋敷の方へ参じますゆえ、お待ち下されませ」
 先刻京弥から見舞われた太股の疵の痛みを物ともしないで、欣舞《きんぷ》しながら非人姿の杉浦権之兵衛が立去りましたので、主水之介もまた直ちに駕籠を屋敷へ引き返させました。

       四

 やがてのことにしっとりと花曇りの日は暮れて、ひたひたと押し迫って来たものは、一刻千金と折紙のつけられているあの春の宵です。その宵の六ツ半頃――。
「御前……」
 先程の非人姿だった杉浦権之兵衛が、いつのまにか小ざっぱりとした姿に変りながら、甲斐々々しく復命に立ちかえって来たので、退屈男も様子いかにときき尋ねました。
「大分早いようじゃな。江戸一円に触れさせるとあらば、容易な手数ではなさそうじゃが、いかがいたした」
「いえもう、こういう事ならば手前がお手のものでござります。若い奴等を十人ばかりもかき集めましてな、第一に先ず御前には縁の深い、曲輪五丁街へ触れさせなくてはと存じまして、早速お言いつけ通り口から口ヘ広めさせましたところ、御名前の御広大なのにはいささか手前も驚きましてござりまするよ――江戸名物旗本退屈男何者かに毒殺さる、とこのようにすぐともう瓦版《かわらばん》に起しましてな、町から町へ呼び売りして歩いたげにござりまするぞ。それから、第二にはなるべく人の寄る場所がよかろうと存じましたのでな。目貫《めぬき》々々の湯屋床屋へ参って、巧みに評判させましてござります」
「いや左様か。商売道に依って賢しじゃ、まだちと薬が利くのは早いかも知れぬが、でもこうしていたとて退屈ゆえ、ではそろそろ江戸見物に出かけるか」
 言いつつ、何かもう前から計画が立ってでもいたかのごとく微笑していましたが、不意に大きく呼びました。
「こりゃ京弥、それから菊!」
 雛の一対のごとき二人が、なぜとはなくもうぼッと頬に紅《べに》を染めながら、相前後してそこに現れるのをみると、退屈男は猪突に愛妹へ言いました。
「のう菊、お前にちと叱られるかも知れぬが、京弥に少々用があるゆえ、この兄が二三日借用致すぞ」
「ま! 何かと言えばそのような御冗談ばっかりおっしゃいまして、あまりお冷やかしなさりましたら、いっそもうわたしは知りませぬ」
「なぞと陰にこもったことを申して、その実少し妬いているようじゃが、煮て喰いも焼いて喰いもせぬゆえ、大丈夫じゃ。では、借用するぞ」
 愛撫のこもった冗談口を叩いていましたが、やにわと京弥に言いました。
「今朝ほど、腕が鳴ってならぬとか申していたゆえ、望みにまかせて、腕ならしさせてつかわそうぞ。早速菊路にも手伝うて貰うて、女装して参れ」
「でも、あの、わたくしの腕が鳴ると申しましたのは、女子《おなご》なぞになりたいからではござりませぬ」
「おろかよ喃《のう》。百化け十吉をおびきよせる囮《おとり》になるのじゃ。そちの姿顔なら女子に化けても水際立って美しい筈じゃ。どこでいつ十吉に見染められるかは存ぜぬが、この退屈男が毒殺されたと噂をきかば、今宵になりとみめよき婦女子を浚《さら》いに出かけるは必定ゆえ、海老で鯛を釣ってやるのよ」
「そうでござりましたか。よく分ってでござります。ではお菊どの、御造作ながら御手伝い下さりませ」
 打揃いながら別室へ退《しりぞ》いていったかと思われましたが、程経てそこに再び立ち現れた京弥の女装姿は、まこと、女子にしても満点と言った折紙すらもが今は愚かな位です。大振袖に胸高な帯をしめて、見るから水々しげな薄萠黄色のお高僧頭巾にすっぽりと面《おもて》を包み、肩のあたりの丸々とした肉付き、腰のあたりのふくよかな曲線、はてはそこに乳房もかくされているのではないかと、怪しまれる程な艶に悩ましい女装でしたから、命じた主水之介までがやや暫し見惚れた位でしたが、やがて自身は勿論のこと、杉浦権之兵衛にも命じて、深々と覆面させると、細身の太刀をおとし差しに、お馴染の意気な素足に雪駄ばきで、京弥、権之兵衛両名を引き具しながら、悠々と長割下水を立ちいでましたのは、宵の五ツ少し手前な刻限でした。
 今の時間ならば丁度七時半前後といった時分ですから、御意はよし、春はよし、恰もそぞろ歩きの人の出盛り時で、しかし、退屈男以下三名の目ざしたところは、川を向うに渡っての日本橋から京橋への大通りでした。無論のことにそれと言うのは、囮の京弥をなるべく人の目に立たせるためで、人が京弥のすばらしい女装姿に見惚れて通ったならば、いつかそのあでやか振りが伝わって、百化け十吉の耳にも這入り、或は直接また目にもかけ、うまうま海老で鯛を釣る事が出来るだろうと思ったからでした。
 さればこそ退屈男は、屋敷を出てから女装の京弥とは二三丁もわざと距離をおいて、どこで十吉がかいま見た時でも
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