も騒ぎだしましたら、騒いではならぬ、出てきてもならぬ、いいというまで女中べやにはいっておれと申されまして、たいへんおしかりになったのでござりました。それゆえ、おことばどおり、あちらのへやに閉じこもって震えておりましたところ、どこかへお出ましなさったご様子でござりましたが、しばらくたってまたお帰りになりましたかと思うと、急に家の中がしいんとなりましたゆえ、不審に思いまして、こわごわ今のぞきにまいりましたら、このお書き置き一枚があるきりで、いつのまにどこへお出かけなさいましたものやら、もうお姿がなくなっていたのでござります」
じつに不思議なことばかりでした。
何一つなぞの底が割れぬうちに、次から次へと絶えまなく奇怪事が重なったのです。詮議の手づるもまた、これならばと思ってたぐろうとした一方から、ぷつりぷつりと切れてしまったのでした。
矢を受けて死んだあの若侍もそうです。洗っていったら、せめてその糸口ぐらいなりとも、雪で変死を遂げたあの松坂甚吾の秘密がわかるだろうと思ったのに、ぷつりと矢が降ってきて、すべてをやみからやみへ葬ってしまったのです。それならば妻女のおこよをと思って洗いに来たら、その女もまたこの始末でした。しかも、書き置きを信ずるならば、すでにもうこの世の人ではなくなっているのです。
名人は、黙々とあごをなでなで、じいっと考え込みました。
手のつけどころがない、かかりどころがない。まるで糸口がないのです。手づるの端もないのです。しかも、残っている事実は、ことごとくが疑問、ことごとくがなぞばかりなのでした。
考えようによっては、同役だというあの矢を受けた若侍が、松坂甚吾を雪で焼いた下手人とも考えられるのです。下手人なればこそ、あんなに目いろを変えて、力こぶを入れたとも思われるのでした。
しかし、それにしては矢を射かけられたのが不思議です。矢でねらわれたという事実だけを中心にして考えていくと、生かしておいてはならぬために、口を割られてはふつごうなために、思いもよらぬほんとうの下手人が、事のあばかれぬさきに、いちはやく鐘楼の上から、射止めたとも考えられるのです。射とめたその下手人はだれであるか、疑っていったら、死を急いだ妻女のおこよとも思われるのでした。ことに、紙片に見える罪ほろぼしうんぬんという文字が疑わしいのです。夫を恥ずかしめ候ことそらおそろしく、とあるところを見ると、あるいはおこよと、矢を射かけられたあの同役の若侍とが、夫の目を忍ぶ仲にでもなっておって、その不義を押し隠すために、夫を同役のあの若侍にあやめさせ、あやめたその若侍をまたおこよが射殺し、すべてをやみからやみへ葬っておいて、すべての秘密を包みながら、この遺書どおり、死を急いだとも考えられるのでした。
「参ったね。桂馬《けいま》はあるが、打ちどころがねえというやつだ。え? だんな、ちがいますかい」
そろそろと始めたのは鳴り男です。
「正月そうそう、だんなをバカにしたくはねえんだが、あんまりいばった口をきくもんじゃねえんですよ。さっきなんとかおっしゃいましたね。からめ手詮議がどうのこうの、桂馬がかりが十八番のと、たいそうもなくいばったお口をおききのようでしたが、自慢なら自慢で、早く王手をすりゃいいんだ、王手をね」
「…………」
「くやしいね。恥ずかしいなら恥ずかしいと、はっきりおっしゃりゃいいんだ。てれかくしに黙らなくともいいんですよ。だいいち、将棋が桂馬ばかりでさせると思っていらっしゃるのがもののまちがいなんだ。金銀飛車角、香《きょう》に歩《ふ》、あっしなんぞはただの歩かもしれねえが、歩だってけっこう王手はできるんですよ。りっぱな王手がねえ。え? だんな! 聞かねえんですかよ!」
やかましくいうのを聞き流しながら、なにか手がかりはないかと、机の上の書き置きをいま一度見しらべました。
しかし、書き手はまさしく女、手跡もまたみごとな文字というだけで、なにも手づるとなるものはないのです。机のまわり、床の間、違いだな、残らず見まわしたが、その違いだなにそれを使って書いたらしい半紙とすずりがあるきりで、なにひとつ不審と思われる品はないのでした。
「あやまったね。しかたがねえや。おまえさん歩《ふ》をお持ちだというから、代わって王手をしてもらうかね……」
つぶやきながら、じろりじろりと、なお丹念にあちらこちらを見ていたが、ふとそのとき気がつくと、いまだにうち震えながらへやのすみにたたずんでいた女中の右手の指先に、墨がついているのです。腕の腹にも、着物のたもとにも、まさしく墨のしみが見えるのです。
不意でした。
何思ったか、とつぜん、にやりと笑いながら違いだなの上のすずりと紙を持ち出すと、不思議なことを女中に命じました。
「これへ名を書け」
「…………」
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