っぺんたこになれってえなら昼湯にでも晩湯にでもいって、いくらでもゆだりますよ。あっしゃだんなのその悲しそうな顔をみると、おまんまがまずくなるんだ、ね、ちょっと。うそにでもいいから、笑っておくんなせえよ」
「ウフフ……!」
「え、ほんとうですかい。ほんとうに笑ったんですかい」
「ほんとうさ。おいらが笑や、ひと笑い五千両の値がするよ。すんでのことに、むっつり右門も世をはかなむところだった。いくらかおいらも焼きが回ったらしいよ」
「へいへい。なるほど。それで……?」
「たいへんなことを見のがしていたのよ。こんなバカなはずはねえ。何か見のがしていやしねえかと考え直しているうちに、ふといま思い出したんだが、おまえは物覚えのいいのが自慢だ。何か思い出すことアねえかい」
「はてね。いかにももの覚えのいいのは自慢だが、品によりけり、ときによりけりでね。いっこう心あたりはねえが、なんですかい」
「灸《きゅう》よ。にんにく灸のあとよ」
「ちげえねえ、なるほど、ありましたね。ええ、ありましたとも! あのもちはだにやけどのあとをこしれえて、もってえねえまねしやがると、じつアちっとばかりしゃくにさわっていたんですが、それがどうかしたんですかい」
「決まってらあ、いましがたお秋はたしかに、当夜お冬のそばから片ときも離れなかった、といったね」
「ええ、いいましたとも! りっぱにいいましたよ」
「しかるに、障子の穴からお冬の手がにゅっと出ているんだ。それがちっとおかしかねえかい」
「ふん、なるほど、おかしいですよ」
「そうだろう。おかしいだろう。しかもだ、冬坊に灸をすえたのはだれだと思うよ。そのお秋がすえたといったじゃねえか」
「かたじけねえ! そろそろ眼《がん》がついてきやがったね。なるほど、灸がおかしいや、なにも式の晩になってやらなくともいいんだからね。わざわざすえたってえのが怪しいですよ」
「怪しけりゃ、お秋がちっとばかりくせえじゃねえかよ。おまえ、にんにく灸はどこに売ってるか知らねえかい」
「知ってますとも! 薬屋にきまってるんですよ! ほらほら! あそこにも薬屋があらあ。何を洗うんですかい。用があるならひとっ走りいってめえりますが、にんにく灸の百両ほども買ってくるんですかい」
「能書きを聞いてくるんだ。気欝《きうつ》の病封じにすえてくれたとぬかしたが、お秋めとんでもねえ気欝封じをしたかもしれねえ。何々にききめがあるか、よく聞いてきな」
「がってんのすけだ」
 飛んでいった姿がくるくると舞いながら帰ってくると、意外なことをいったのです。
「ふざけていやがらあ、気欝封じなんてまっかなうそですよ。ありゃ胃にきく灸だというんだ。おまけに、あいつをすえたら急に眠くなって、死んだように寝込むというんですよ」
「なにッ、眠り灸! 眠くなる灸だってな。ふふん、そうか! さては、お秋め、ひと狂言書いたな――来い! 逆もどりだ。啖呵《たんか》を聞かしてやるよ」
 乗りこんでいったところは、今のさき風に吹き流されている人のようにふらふらと出てきたばかりの、あの大西屋でした。しかし、今はもう颯爽《さっそう》明快、莞爾《かんじ》と笑ってお秋を前にすると、やにわにおどろかして、ずばりといったものです。
「栄五郎の目隠しに穴があったっていいましたぜ」
「えッ!」
 二度訪れたおどろきに、さらにおどろきを重ねて、さっと青ざめた顔の上へ、静かな声がふりかかりました。
「たたみ文句はいくらでもござんす。しかし、夏場はあっさりと行くにかぎりますからね。むだな啖呵は控えましょう。あなたもお妹御に負けず劣らずおきれいでいらっしゃる。だが、少うしお年を召していらっしゃる。でき心の種は、そのお年までおひとり身でいらっしゃったことに根を張っていそうでござんすが、違いますかい」
「なにをおっしゃいます! わたしは何も! わたくしはいっこうに何も……」
「知らん存ぜぬというんですかい。おきのどくだが、灸のにおいがね、にんにく灸のにおいが、栄五郎にやった五十両の小判にはっきりしみついていましたよ」
「ま、にんにく灸のことを!――そうでござんしたか! あれをかぎつけなすったんでございますか……! それではもう、それではもう……」
 じり、じり、と、なにものかに押しつけられでもしたかのようにうなだれると、お秋ははらはらと、そのひざへしずくをはうりおとしました。
 と同時に、たえられなくなったと見えるのです。がばと泣きくずれると、すすりあげ、すすりあげいうのでした。
「取り返しのつかぬことをいたしました。かわいい妹の膚を傷物にして、恐ろしゅうござります……! そら恐ろしゅうござります」
「やっぱり、あんたでござんしたな。なんだとて、またあんないれずみをしたんです」
「かわいかったから、ただもうかわいかったからでござんす」
「なに! かわいかったから?――ほほうね。じゃ、ねたみ心からじゃなかったんですね。あんたはその年でおひとり身、お冬さんは年下なのに、うれしいおめでたごとになったんで、女心のねたましさから、ついふらふらと何かじゃまを入れたんじゃないかと思いましたが、そうじゃなかったんですね」
「とんでもない。ただもう、ただもうかわいかったからなのでござります。と申しただけではご不審にお思いでござりましょうが、ご存じのように、わたくしどもは母のない姉妹、それゆえに自身の身が年とるのも忘れ、ただもうあの子がいじらしさ、かわいさに、いくつかあった縁談も断わりまして、きょうが日までこのわたくしが手しおにかけてきたのでござります。さればこそ、あの子にこのたびの縁談がありましたときにも、だれよりわたしが喜んで、したくのこと日取りのこと、みんなわたくしがめんどうをみたんでござりまするが、女の心というものはわれながら解せませぬ。だれよりも喜んでおりながら、式の晩になってお化粧をしてやろうと、いっしょにあの子とお湯を使っておりましたら、急にあの子を人手に取られるのが惜しくなりたのでござります。こんなかわいい娘を、こんな美しい妹を、知らぬ他人にとられたらと思いましたら、もう矢もたてもたまらなくなりまして、――魔がさしたのでござりましょう、こうやって、ああやって、こっそりいれずみをしたら、一生わたしのそばから離れまいと、ついあのようなそら恐ろしいことをしたのでござります」
「どういうわけじゃ。いれずみしたら一生離れまいとは、どうした子細じゃ」
「喜七なぞとはもともとありもしない人の名、そのありもしない人とさもさも契り合いでもしたように見せかけて、二の腕へあのような彫り物をしておけば、今度の縁談も式をあげた日のうちに破れて生娘のまま帰ってまいりましょうし、こののちともあの彫り物がじゃまをして二度とお嫁の口がかかるまいと、ただただあの子がかわいい一方から、あさはかなことを考えまして、だれともわからぬように栄五郎さんを呼びよせ、にんにく灸で眠ったところを、喜七いのちと障子の穴から彫らしたのでござります……」
 なぞからなぞへ、怪奇につづいた朱彫りのいれずみの陰には、意外な秘密がひそんでいるのです。しかも、そのすべては、聞くも涙ぐましい姉心から根を生じ、つるを伸ばしていたのです――右門の目がしらは、みるみるうちにうるみました。
「ご心中、ほろりとなってござる。よくわかりました。気になるのはお冬どののこの先、どうあっても娘のままお手元におくおつもりでござるか」
「いいえ! いいえ! 今になりましては、もうあの子のしあわせが第一、夫婦仲はどんなでござりましたでしょう。あれがもとで、なんぞいさかいでもありませんでござりましょうか。それが、そればかりが心配でござります……」
「よろしい! その心ならば、今すぐ向島の寮へ参られよ! しかじかかくかくであったと、そなたから正直にお打ちあけなさらば、かえって夫婦仲がむつまじゅうなりましょう。行きまするか!」
「行きまする! 参りまする……!」
「伝六ッ。駕籠《かご》だ。用意をしておやり!」
「ちゃんともう」
「そうか。気がきいたな。では、お秋どの、お早く! 送ってしんぜましょう」
「あい」
 とばかり泣きぬれて、美しい姉の姿は、駕籠の中へ消えました。とみるまに、真夏の真昼の町をゆさゆさ揺れながら遠のきました。――うるんだまなこで見送りながらいったことです。
「伝六、なんだかいいこころもちだな……」
「ちげえねえ。どうでござんす、もういっぺんお昼の朝湯にへえって、たこになりましょうかね」
「ごめんだよ。夏場の酢だこは身の毒だとさ」
 柳の葉かげをくぐって遠のいていく越後上布のうしろ姿が、心憎い涼しさでした……。



底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:菅野朋子
2000年2月24日公開
2005年9月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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