と、よろしく歓をつくしているのです。
「やにさがっているな」
「なんでござんす! 不意にひとのへやへはいってきて、失礼な! なんの用がおありでござんす!」
「ちっとばかりお上の御用筋さ。正直に申し立てろよ。おとついの夜から姿をかくして、ここへ居つづけしているのを突きとめたからこそ、わざわざお越しあそばしたんだ。安い金では、二日もとぐろが巻けるわけはない。どこから金の茶がまが降ってきたんだ」
「恐れ入りました。お上のかたがたでござりましたか。それとも存ぜず、とんだぶちょうほうな口をききましてあいすみませぬ。いいえ、お役人衆ならちょうどさいわい、当人のてまえも気味わるく思っておりましたやさきでござりますゆえ、何もかも申ましょうよ。じつは、この金の出どころが少し不思議でござりましてな」
「なにッ。不思議な出どころ! どうして手にはいった金だ」
「どうもこうもござんせぬ。ちょうどおとついの日暮れ少しすぎでござりました。駕籠屋が突然、てまえのところへだれかさっぱり差し出し人のわからぬ書面を持ってまいりましたのでな。何心なくあけてみると、特にあなたに朱彫りがしていただきたい、こちらのするとおりになっていたなら、お礼は五十両さしあげる、と、こんなに書いてあったのでござります。変なお頼みとは思いましたが、五十両なぞという大金は、わたくしふぜいが二年三年身を粉にして働いてもなかなか手にはいるものではござりませぬゆえ、つい欲にかられて道具の用意をしながら出てまいりますると、いきなり駕籠屋が力まかせに押えつけて、目隠しをしてしまったんですよ。それから先が不思議、どんどん飛ばしていって、目隠しのまま連れ込んだ家が、どこのどなたの住まいかわかりませぬが、たしかに薬屋なんでござんす」
「なにッ、薬屋!」
「そうなんでござんす。ぷうんと家じゅうに薬のにおいが漂っておりましたからね。はてな、変なことをなさるなと思っておりましたら、だれともわからぬ人がそでをひっぱって、ぐんぐん裏座敷らしいところへ連れていきましたのでな。いうとおりになっていろというのはこのことだろうと思って覚悟をしておりますると、男とも女とも、年寄りとも、若い者ともわからぬ声で、もうよい、目隠しを取れ、といいましたゆえ、こわごわ取りはずしてみますると、目の前に紙切れが置いてあって、それに変なことが書いてあるんでござんす。いま障子の穴から手が一本出るから、大急ぎで喜七いのちと――」
「ほんとうか!」
「ほんとうとも、ほんとうとも、当人のわたくしがちゃんと出会ったことなんだから、うそはござりませぬ。気味のわるいことになったなと思って、ひょいと座敷の様子を見たら、そのときはじめて、連れ込まれた家が日ごろ朱を買いに行く大西屋さんらしいのに気がつきました。ここにはお秋お冬おふたりの評判娘がおるはずだがと思っておりましたら、にゅっと障子の穴から女の手が出たんでござります。たしかに女の手でござりました。姉かしら、妹かしらと思いましたが、障子をあけてみることもならず、いわれたとおり黙って彫れば五十両になるだろうと思いまして、大急ぎに喜七いのちと、師匠ゆずりのつぶし彫りを仕上げましたら、また目隠しをしろとしかるように声がかかりましたのでな、いいつけどおりいたしましたら――」
「五十両、だれからともなく礼金が舞い込んできたと申すか!」
「そうなんでござんす。くれた人も、頼み手もたしかに大西屋さんのおかたに相違あるまいと思いまするが、だれともさっぱり見当がつきませぬ。しかし、別段わるいことをしたのでもなし、五十両はかたじけないと、さっそくこの女のところへ飛んできたんでございます」
 がぜん、つるから出たつるは、さらに怪しくぶきみなつるを伸ばしました。彫った女は、いうまでもなくお冬に相違ない。怪しき頼み手もまた、栄五郎のいうがごとく、大西屋の中にいた者にちがいない。しかし、だれが頼んだかは全く即断を許さぬ濃いなぞでした。お嫁入りする当夜なのです。親戚《しんせき》縁者の者もあまた招かれていたことであろうし、町内の者もおおぜいてつだいに来ていたことであろう、いずれにしても人の出入りが多かったはずなのです。
 それらのうちのだれかであるか?
 それとも、じつはお冬自身がみずから計ってやったことであるか?
「おもしろくなりやがった。ちょうど夏場だ。知恵袋の虫干しをやろうよ。ここまで来りゃぞうさもあるめえ。栄五郎、大西屋は本石町だっけな」
「そうでござります。あそこは薬種屋ばかり。かどが林幸、大西屋さんはそれから二町ほど行った左側でござります」
「乗り込んでいったら、何か眼《がん》がつくだろう。伝六、ついてきな。――栄五郎もあんまりうつつをぬかしちゃいけねえぜ。女の子なんてえものは、脳に凝りがきたとき、薬味に用いるものだ。師匠に心配させねえように、早く帰んなよ」
 駕籠を飛はして目ざしたのは、お冬の生家大西屋です。

     5

 なるほど、本石町は左右両側一面の薬屋でした。その中で大西屋は指折りの大家ででもあるのか、間口だけでも六間近く、店の者も番頭手代小僧まで合わせると二十人近くはいそうなのです。ずいとはいると、鷹揚《おうよう》でした。
「奥へ通るぞ」
「あの、ちょっと、どなたさまでござります、薬のご用ならこちらで承りまするが、何品でござりましょう」
「これ、勇吉、何をそそういたしまする!」
 早くも見つけたか、やさしくしかっていそいそと出てきたのは、姉娘のお秋らしいしとやかな美人です。目に憂いがあって、どことなく寂しい面ざしでしたが、なかなかのしっかり者とみえて、目ききもたしかでした。
「失礼なことを申して、なんでござります! だんなさまのあの巻き羽織が目につきませぬか。とんだ無作法をいたしました。なんぞご密談でも?」
「少しばかり。そなたがお秋どのか」
「さようでござります。父はちょっと他出いたしましてただいま不在にござりまするが、御用でござりましたら、この秋が代わって承りまするでござります。奥へどうぞ」
 応対のさわやかさ、物腰のしとやかさ、一糸の乱れもない。母代わりとなって妹弟ふたりを育ててくれたとお冬がいったのも、なるほどとうなずかれるのです。
 導き入れた一室は、ちり一つない奥の広やかな客間でした。
「なにから何までがべっぴんだね」
「はい……?」
「いいえ、用のあるのはあっしじゃねえ。だんなえ、ぼんやりしていちゃいけませんよ。こういうご大家へ来ると、伝六はからきし板につかねえんだ。小さくなっていますからね。はええところ虫干しでもおせんたくでも、遠慮なくおやりなせえよ」
 ことごとに鳴り場所を見つけてはいらざる口を出す伝六には取り合おうともしないで、いつも忘れぬあの右門流です。まずじろじろと座敷のうちの器具調度、ひととおりのものに鋭い目を向けました。お冬の慶事がどんなに盛大であったか、その夜のはなやかさを今も物語って、床の間には数々のお祝い物がうず高く積んであるのです。
「おめでたがござりまして、なによりでござったな」
「おかげさまで……お用談はそれについて何か……?」
「さよう。なぞが解けるまではちと他聞をはばかるが、血を分けたお姉御ならばさしつかえもあるまい。お冬どのに変なことがござってな」
「なんでござりましょう?」
「知らぬまに、二の腕へいれずみが降ってわいたのじゃ」
「ま!……あの子が? あの子の膚に! どんな、どんないれずみでござりましょう!」
「喜七いのちと、五文字の浮かし彫りじゃ」
「喜七!」
「ご存じか!」
「いいえ、存じませぬ、知りませぬ。似通った名まえの者さえも、あの子の知り人にはござりませぬ。だいいち、あの子はいたって内気もの、みだりがましい男狂いのうわさなぞなにひとつござりませぬのに、なんとしたのでござりましょう。そんな、そのような不思議なことがある道理ござりませぬ!」
「でも、現在彫ってあるからにはいたしかたもあるまい。聞き込んだこともあるゆえ、お尋ねつかまつる。当家のご家族は?」
「奉公人残らず入れまして二十八人にござります。父、わたくし、弟、女中が五人、店の者は番頭三人、手代六人、あとの十一人はいずれも十二、三の小僧たちでござります」
 年齢《としは》のいかぬ小僧たちに、色恋ざたがあろうとは思えない。疑わしいのは、手代六人と、番頭三人の九名です。
「番頭の名は?」
「伝右衛門《でんえもん》、五兵衛《ごへえ》、正助、みんな五十に近い者ばかりでござります」
「手代どもは?」
「新吉、宗太郎、竹造、源助、与之助《よのすけ》、巳太郎《みたろう》の六人でござります」
 喜七はおろか、喜の字のついた名も、七の字のついた名まえすらもないのでした。奉公人のうちに嫌疑《けんぎ》のかかる者がいないとしたら、結婚当夜招かれた者たちにめぼしを移さねばならないのです。ふと、そのとき、名人の目はもっけもない品を見つけました。床の間にうず高く積まれた祝い品のかたわらに、婚儀招客帳と書かれた一冊が見えるのです。当夜出入りの者の名をしらべるには、これに越したものはない。
 黙って立ち上がって手にすると同時に、まず目を射たのは、親戚《しんせき》招客ご芳名とある文字でした。これがざっと六十一名、喜右衛門、喜太郎と似た名まえがふたりあったが、喜七というのはどこにも見当たらないのです。
 つづいて町内招客ご芳名とあるのが十六名、おてつだい衆とあるのが十一名。
 しかし、そのいずれにも喜七なる名まえは皆無でした。
「ないか!」
「狂いましたかい」
 どうやら、狂いかけたらしいのです。どうやら、眼《がん》は横へそれかかったらしいのです。伝六の声が乗りだしました。
「さるも木から落ちるんだからな。それに、この夏場じゃ知恵袋にもかびがはえますよ」
「黙ってろ。お秋どの!」
「あい」
「いかにも不思議じゃが、当夜はお冬どののお身のまわり、だれがおやりなさった」
「わたくしでござります。たったひとりのかわいい妹、日ごろわたくしが母代わりになっておりましたゆえ、当夜もこのわたくしが片ときも目を離さず、なにから何まで世話をしたのでござります」
 だのに、障子の穴からにゅっと手が出たとすれば、怪奇の雲はいよいよ怪奇な雲に包まれてきたのです。
「…………」
 青い顔でした。黙然として立ち上がると、名人右門は珍しやしんしんとうち沈んで、思いあぐねたようにふらふらと真昼の表口をどこへともなく歩きだしました。あたりまえなことにちがいない。一本つるをつかんだら、ホシを逃がしたことのない右門なのです。それが、いま一歩というところまでたどり着きながら、ばったりと大きな岩にぶつかったのでした。つるはある。手が障子の穴からにゅっとのぞいたというつるはある。しかし、どちらへ掘り下げていったらいいか、喜七いのちの正体は根も見せないのです。
「だめですよ。そこは日本橋だ。何をぼんやりしているんですかよ!」
「…………」
「じろじろと人が見ているじゃござんせんか。日本橋から飛び込んだっても死ねやしませんよ。五十三次東海道へは行かれるが、冥土《めいど》へ行くなら道が違うんだ。だんならしくもねえ、こっちまでが悲しくなるじゃござんせんか。しっかりおしなせえよ」
 だが、名人は黙々、しんしん、そこが日本橋であるのも、橋の上であるのも知らないもののように、ぼんやりとたたずみながら、うち考えたままでした。
 もはや策はない……。
 ただ疑われるのは、お冬自身がはたして真実の陳述をしているか否かです。女だ!――心の秘密はわかるものでない。虫も殺さぬような美しい顔をしていて、じつはとうからもう喜七虫がついていたかもしれないのです。
 それにしても、もどかしいのはその喜七の何者であるか、さらに目鼻のつかないことでした。
 暑い日ざかりでした。
 青い顔でした。
 悲しげな目の色でした。
「効験あらたかってえおまじないはねえのかな。ね、ちょっとあごをなでてみてごらんなせえよ。なんとかなるかもしれねえんだから……え、ちょっと」
「…………」
「あやまったな、もうい
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