す」
「まことならばいかにも不思議じゃが、冬どのとやらもそのとおりか」
「あい。いつこのようないたずらをされましたやら、少しも覚えござりませぬ。知っておりましたら、いいえ、いいえ、このようなはしたないものを腕に入れておりましたら、いずれはわかること、わたくしとても、そしらぬ顔でとついでまいられるはずはござりませぬ」
「このまえお湯にはいったはいつでござった」
「きのうの夕がた、里を出るまえでござります」
「そのときは別条ありませなんだか」
「ござりませぬ! ござりませぬ! 夕がたお湯を使って、お化粧をしていただいて、式へ参りまして、それからこちらというものは、ただいまここへ参りまするまで横になるおりもないほど忙しゅうござりましたゆえ、いつこんなにだいじな膚をけがされましたのやら、気味がわるいのでござります……」
「なるほどのう。いや、しかと拝見いたしました。もうけっこう、膚をおさめなされい」
消えも入りたいようなはじらい方であんどんのかげに隠れながら、着物のそでに手を通そうとしたとき、はしなくも名人の目を捕えたのは、その背に見えるなまなましい灸《きゅう》あとでした。
「不思議なものがござりまするな。なんの灸でござる」
「にんにく灸のあとでござります」
「なに? にんにく灸とのう! あまり耳にせぬが、なんの病にきくお灸じゃ」
「これをいたしますれば、とついでから気欝《きうつ》の病にかからぬとか申しまして、ゆうべ式へ出がけに、姉さまがわざわざおすえくださったものでござります」
「姉?」
「あい。なくなった母さまの代わりになって、わたくしと弟を育てあげてくださった姉でござります」
「ほほうのう。いや、もうよろしゅうござる。キリシタンバテレンのしわざなら格別、さもないかぎりは、ひとりでにいれずみが膚に浮き上がるはずもござるまい。なんとか詮議の道もたとうゆえ、それまではまずまず仲むつまじゅう語り暮らすが肝心じゃ。――いずれまたのちほど、おじゃまでござった」
長居は無用とばかり静かに立ち上がると、名人は止めるひまもないうちにもう表のやみの中へ吸われていきました。
「おどろいたね。目がくらくらしやがって、墨田の川がどっちにあるか見当もつかねえや」
出るといっしょに、たちまち音をあげたのは伝六です。
「力がはいるね、力がね。ひとさまのものだが、なんしろいい女の子のことなんだからね。おのずとこっちも力がはいるというもんですよ。え、ちょっと。はええがいいんだ。早いところ眼《がん》をつけねえことには、恥ずかしい、申しわけがないと、ざんぶりやらねえともかぎらねえからね。ひとにらみにホシを見つけ出して、功徳を施してやるといいんですよ」
むろん、それができたら文句はない。しかし、事は伝六が意のごとく、さようにあっさりとかんたんにひとにらみというわけにはいかないのです。だいいち、お冬の陳述からしてが、はたして真実であるかどうか、はなはだしく疑問でした。知らぬ、覚えはない、喜七なぞという男は耳にしたこともないと言い張ってはいたが、ないものの腕に喜七いのちと彫りつけられてあるのが疑わしいのです。詮議の道はそれを確かめることがまず第一でした。
つづいてはお冬の素姓の詮索《せんさく》。第三には喜七なるものがどこのだれであるかその詮議、第四にはあのすばらしく江戸まえな朱彫りの彫り手はいったい何者であるかその詮議。第五にはお湯からお湯までの間の行動。すなわち、お冬があの彫りものを見つけるまでの、ゆうべから今のさきまでに、何を、どうして、どうやっていたか、その穿鑿《せんさく》。なぞの根が深いだけに、それを解きほどくべき詮議のつるもまたじつに多種多様なのでした。
「ウフフ。ちっとこれは知恵がいるかのう……」
うち考えながら、大川べりをあちらこちらとさまようていたが、いく本かのつるの中から、すばらしい一本が見つかったとみえるのです。
とつぜん、意外な声が放たれました。
「寝るか」
「へ……?」
「うちへ帰って寝ようじゃないかといっているんだよ」
「ちぇッ。つがもねえ、何をもったいつけていうんですかい。夜が来りゃみんな寝るに決まってるんだ。わざわざおおぎょうに断わらなくてもいいんですよ。足もとがふらふらしていらっしゃるが、日ごろ偉そうなことをおっしゃって、だんなもあのべっぴんの雪の膚を見てから、脳のかげんがちっとおかしくなったんじゃござんせんかい」
「やかましいや! 早く船の勘考でもしろい」
夕だちあとのすがすがしい星空の下を八丁堀までずっと舟。帰るが早いか、ほんとうにそのまま青蚊帳《あおかや》の中へ、楽々と身を横たえました。
3
しかし、その翌朝が早いのです。
東が白んだか白まないかにむっくり起き上がると、不思議なことにも手ぬぐい片手にこち
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