た年若い町人の姿です。いや、町人づくりの、のっぺりとしたその男の姿が目にはいったばかりではない、下手人が行くのです、行くのです。奪いとったしごきを懐中にして、必死とお山同心の追撃をさけながら、桜の陰の怪しの町人目ざしつつ逃げ走っていく姿が矢のごとく目を射抜きました。同時です。
「狂ったな。おどし文《ぶみ》の文句のぐあいじゃ、まさしく二本差しのしわざとにらんでおったが、春先ゃやっぱり眼《がん》も狂うとみえらあ。しごきぬすっとの元締めさんは、ちゃちな青造さんだよ。やっこを押えりゃいいんだ。ぽかんとしていねえで、ついてきなよ」
すいすいと足を早めた名人の姿を知って、ぎょっとなりながら逃げ隠れようとしたが、しかしすでにおそい。ぱらぱらと駆け集まっていく手をふさいだのは、お山同心の一隊です。
「神妙にしろッ」
押えとったところへ、
「ご苦労にござる」
ずういと歩みよると、おちついた声でした。
「それなる町人、ちょうだいいたしとうござるが、いかがでござろう」
「なにッ。尊公は何者じゃッ」
けしきばんだのも当然でした。お山同心といえば権限も格別、職責もまた格別、上野東照宮|霊廟《れいびょう》づきの同心で、町方とは全然なわ張り違いであるばかりではなく、事いやしくもこの山内において突発した以上は、吟味、詮議《せんぎ》、下手人の引き渡し、大小のことすべてこの一円一帯を預かるお山同心にその支配権があったからです。――さればこそ、名人はいたっていんぎんでした。
「ご不審はごもっとも至極、てまえはこれなる巻き羽織でも知らるるとおり、八丁堀の右門と申す者でござる」
「おお、そなたでござったか! ご評判は存じながら、お見それいたして失礼つかまつった。では、この町人たちもなんぞ……?」
「さようでござる。ちと詮議の筋あるやつら、てまえにお引き渡し願えませぬか」
「ご貴殿ならば否やござらぬ。お気ままに」
「かたじけない――」
ずかずかと年若いその町人のそばへ歩みよると、いつものあの右門流です。ぎろりと鋭く上から下へその風体をひとにらみしたかと見えるや、間もおかずに、ずばりとすばらしいずぼしの一語が飛んでいきました。
「きさま、紅屋の手代だな!」
「えッ――」
「びっくりしたっておそいや! 指だよ、指だよ。両手のその指の先に、藍《あい》や江戸紫のしみがあるじゃねえかよ。せがれにしちゃ身なりがちっとおそまつだ。番頭か手代とにらんだが、違ったか!」
「…………」
「はきはき返事をしろい! 気はなげえが、啖呵《たんか》筋が張りきっているんだ。おまけに、この雨じゃねえか、しっぽりぬれるには場所が違わあ、手間ア取らせねえで、はっきりいいなよ!」
「恐れ入りました。いかにもおめがねどおり、紅屋の手代幸助と申す者でござります」
「と申す者でござりますだけじゃ恐れ入り方が足りねえや。うちで染めて売ったしごきを、こんなにたくさんの人まで使ってとり返すからにゃ、ただのいたずらじゃあるめえ。二度売りやってもうけるつもりだったか」
「ど、どうつかまつりまして、そんなはしたない了見からではござりませぬ。じつは、ちとその――」
「なんだというんだよ」
「ひとに聞かれますると人命にかかわりますることでござりますゆえ、できますことならお人払いを――」
「ぜいたくいうねえ! 啖呵《たんか》のききもいいが、よしっ引き受けたとなりゃ、人一倍たのもしいおいらなんだ。人命にかかわるならかかわるように、おいらが計ってやらあ。何がどうしたというんだよ」
「弱りましたな。じつは、ちと恥ずかしいことでござりますゆえ、いいや、申しましょう。そういうおことばならば申しまするが、じつはその少々人目をはばかる不義の恋をいたしまして――」
「なんでえ! また色|沙汰《ざた》か。おいらがひとり者だと思って、意地わるくまたおのろけ騒動ばかし起こしゃがらあ。相手の女はどこのだれだよ」
「加賀家奥仕えのお蘭どのでござります」
「へえ。つやっぽい名まえが出りゃがったな。お蘭しごきのご本尊さまが相手かい。それにしても、この騒ぎはどうしたというんだよ」
「どうもこうもござりませぬ。お蘭とてまえは一つ町に育った幼なじみ。向こうは加賀家のお腰元に、てまえは染め物いじりの紅屋さんへ――」
「分かれて色修業に奉公しているうち、とんだほんものの色恋が染め上がったというのかい」
「というわけではござりませぬが、やはり幼なじみと申す者はうれしいものでござります。いつとはなしに思い思われる仲になりましたなれど、てまえはとにかく、お蘭はおうせもままならぬ奥勤め。文《ふみ》一つやりとりするにも人目をはばからねばなりませぬゆえ、お蘭どのが思いついてくふうしたのが、このお蘭しごきでござります。と申せばもうおわかりでござりましょうが、ひと重のしごきをわざわざ二重の袋仕立てにしたというのも、じつはその袋の中へてまえからの文を忍ばせて、首尾よく送り届ける仕掛けのためのくふうでござりました。それゆえ、決まってお蘭どのが月々三本ずつ――」
「よし、わかった。そんなにたくさんいるはずはねえのに、決まって三本ずつ新しいのを買うというのが不審だとにらんでいたが、ほしいのはしごきじゃなくて、おまえの口説《くぜつ》をこめた文が目あてだったというのかい」
「さようでござります。この月の十一日にも新規の品が三十六本仕上がりましたゆえ、そのうちの一本にいつものとおりこっそりとてまえの文を忍ばせておきまして、あすにも加賀様から沙汰《さた》のありしだい届けようと待ちあぐんでおりましたところ、運の尽きというものに相違ござりませぬ。でき上がったちょうどその日、所用がありまして、ついてまえが店をあけたるす中に、仕上がるのを待ちかまえておりましたものか、ばたばたと十一人ほどのお客さまがあとから買いに参られまして、店の者がまた秘密の文を仕込んだ一本がその中に交じっているとも知らず、どこのどなたか住まいもお名まえもわからぬお客さまがたに売りさばいてしもうたのでござります。それゆえぎょうてんいたしまして、もしや残りの二十五本に交じっていはしないかとさっそく調べようと存じましたが、これがまたあいにくなことには、同じその十一日に、加賀家から二十五本取りまとめて十五日に納入しろとのご用命があったとか申しまして、主人が一つ一つの桐箱《きりばこ》に入念な封印をほどこし御用倉へ厳重に納めてしまいましたゆえ、心はあせっても手が出せず、何をいうにも不義はお家の法度《はっと》と、きびしいおきてに縛られているお屋敷仕えのお腰元でござります。万が一ないしょの文が人手に渡り、ふたりの秘密があばかれましたら、てまえはとにかく、お蘭どのの命はあるまいと、そのことばかり恐ろしゅう思いまして、いろいろ思案いたしましたが浅知恵の悲しさ、そのまにも日がたっては一大事にござりますゆえ、悪いこととは知りながら、ついやるせなさのあまりに、もしかしたら運よく取り返すことができはしないかと、そちらに捕えられている八人のかたがたに旨を含め、お蘭しごきを締めている女を見かけしだい、かすめ取るよう、一本盗みとったら二分ずつ礼をさし上げる約束で、こっそりと文改めしたのでござります。なれども、悲しいかな、どなたの手に渡っているやら、むだぼねおりでござりましたところへ、こん日ここへあのかたがたがそろいのしごきでお花見にお越しとかぎつけましたゆえ、これ屈強と網を張っていたのがこんな騒ぎになりましたもと、それもこれも秘密のその文、見つけたいばっかりの一心でござりました。ありようはそれだけのこと、お慈悲のおさばきいただけましたらしあわせにござります」
「いかにもな。聞いてみりゃたわいがねえが、忍んだ恋ゆえの知恵がくふうさせたお蘭しごきとは、なかなかしゃれていらあ。事がそうと決まりゃ、おまえさんのいい人にも当たってみなくちゃなるめえ。向こうの桜の下に弁天さまが二十四体雨宿りしているようだが、おまえさんがご信心の腰元弁天はどの見当だ」
「それが、じつはおかしいんでござります。あのお腰元連といっしょに来なければならんはずなのに、どうしたことやら、肝心のそのお蘭どのが姿を見せませんゆえ、先ほどから不審に思うているのでござります」
「なに! お蘭がおらんというのかい。しゃれからとんだなぞが出りゃがったな。伝六ッ、伝六ッ。どこをまごまごしているんだ。ちょっくらあそこのお腰元衆のところへいって、お蘭がどうしておらんのか、ついでに二十四本のしごきの中も洗ってきなよ」
「へへんですよ。まごまごしていたんじゃねえ、それをいま洗ってきたんだ。二十五本納めたしごきが花見に浮かれ出たのに一本不足の二十四本とは、これいかにと思ったからね、ちょいと気をきかして当たってみたら、不思議じゃござんせんかい。二十四本のしごきはみなからっぽのぬけがらで、お蘭弁天がまたどうしたことか、きのう急に浅草の並木町とやらの家へ宿下がりを願い出して、それっきりきょうも姿を見せんというんですよ」
「なにッ、そうか! さては、やられたなッ。芽が吹きやがった。ゆうべ八丁堀へこかし込んだあのちゃちなおどし文のなぞが、それでようやく新芽を出しやがったわい。幸助ッ、むろんおまえがおどし文なんぞ、あんないたずらしたんじゃあるめえな」
「め、め、めっそうもござりませぬ。文取り返したさに、この四、五日は無我夢中、どんなおどし文かは存じませぬが、てまえの書いたものは文違いでござります」
「しゃれたことをぬかしゃがらあ。伝六ッ、お蘭の家は並木町のどこだといった」
「かどにかざり屋があって、それから三軒めのしもた屋だという話です」
「眼《がん》はそこだ。――お山同心のかたがた! お聞きのとおりでござる。慈悲は東照宮おんみたまもお喜びなさるはず、お召し捕《と》りの八人のやくざ者たちは、百たたきのおしおきにでもしたうえ、放逐しておやりくだされい。――幸助ッ」
「へえ」
「人の色恋のおてつだいはあんまりぞっとしねえが、お蘭しごきのくふうがあだめかしくて気に入った。おいらが慈悲をかけてひと知恵貸してやるからな。そのかわり、今すぐ南町ご番所へ自訴にいって、しかじかかくかくでござりますと正直に申し立てろ。さすれば、しごきをとられたお嬢さんたちの名まえも居どころもわかるはず。わかったら、けちけちしちゃいけねえぜ。おわびのしるしにお菓子折りの一つずつも手みやげにして、とったしごきは返してやりな。いいかい、忘れるなよ」
「ありがとうござります。このとおり、このとおり、お礼のしようもござりませぬ」
「拝むなはええや。無事におったら、お蘭弁天さまでもたんと拝みなよ。伝あにい! 用意はいいのかい」
「いうにゃ及ぶでごぜえます! ちきしょう、雨が小降りになりやがった。散れ散れ花散れ駕籠《かご》飛ばせとくりゃがらあ。山下で用意をしておりますからね。二丁ですかい、一丁ですかい」
「おごってやらあ。二丁にしなよ」
「ちぇッ、話せるね。こんなきっぷのいいおだんなを、なんだってまた江戸の女の子がいつまでもひとりでおくんだろうな。ほれ手がなけりゃ、おらがほれてやらあ。待っているからね、ゆっくり急いでおいでなせえよ」
花のふぶきをひらひら浴びて、小降りの雨にしっぽりぬれて、花びら散り敷く道を山下めがけていっさん走りでした。
4
しかし、そろえて待っていたその二丁の駕籠に乗ると同時です。けたたましく伝六が音をあげました。
「だんな、だんな、今ごろになって出りゃがった。変な野郎が、ちょこちょことつけだしましたぜ!」
「ほほう。案の定新芽が出たか。いずれはちゃちな野郎だろうが、念のために首実検しようかい」
おどろきもせず、たれのあわいからのぞいてみると、これが早い、――年のころは三十七、八、町人づくり。雨の中を長ぞうりはいて着流しのくせに、ちょこちょこと二十間ばかりのあとから、じつに足が早いのです。
「まず町飛脚という見当かな。黒幕はたしかに二本差しにちげえねえが、あんなやつまで手先に使って、上野へ来たことまでかぎつけて、この山下に張り
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