、暖かく寝ろよ」
ぷいと表へ出ると、うそうそとひとりで笑いながら、何思ったかやにわに伝六を驚かしていったものです。
「あにい。この辺のどこかにかまぼこ屋があったっけな」
「へ……?」
「かまぼこ屋のことだよ」
「はてね。かまぼことは、あの食うかまぼこのことですかい」
「あたりまえだよ」
「ちくしょうッ。さあおもしろくなりやがったぞ。右門流もここまで行くとまったく神わざもんだね。お蘭しごきの下手人がかまぼこ屋たア、しゃれどころですよ。板を背負ってはりつけしおきとはこれいかにとね。ありますよ! ありますよ! ええ、あるんですとも! その横町を向こうへ曲がりゃ、江戸でも名代の伊豆屋《いずや》ってえのがありますよ」
「買ってきな」
「へ……?」
「三枚ばかり買ってこいといってるんだよ」
「ね……!」
「何を感心しているんだ。うちのだんなは特別食い栄耀《えいよう》のおかただから、いちばん上等をくれろといってな、値段にかまわず飛びきり一品を買ってきなよ。それからついでに、あたりめ甘露煮、なんでもいいからおまえさんの口に合うようなものをいっしょにたんまり買って、酒も生一本を一升ばかり忘れずに求めてな、ほら、一両だ。これだけありゃたっぷりだろう」
「おどろいたな。ちょっと伺いますがね」
「なんだよ」
「なんしろ、陽気がこのとおりの木の芽どきなんだからね。ちょっと気になるんですが、まさかにぽうっときたんじゃござんすまいね」
「染めが違わあ。紅徳の江戸紫だっても、こんなに性のいい江戸前にゃ染まらねえんだ。一匁いくらというような高値《こうじき》なおいらのからだが、そうたやすくぽうっとなってたまるけえ。とっとと買ってけえって、お重に詰めて、あしたの朝ははええんだからな、いつでも役にたつようにしたくしておきな。おいら、ひと足先にけえって寝るからね、おしゃべりてんかん起こして道草食ってちゃいけねえぜ」
不意打ちの命令に、鼻をつままれでもしたかのごとくぽうっとなりながらたたずんでいる伝六を残しておいて、さっさと先に八丁堀へ帰っていくと、春のよさりの灯影《ほかげ》を抱いて、ひとり寝の夢も紫色の、気のもめる安らかな夢路におちいりました。
3
朝です。
八百八町ひとわたり一円が、薄日の影も淡く銀がすみにけむって、のどかさいうばかりない花曇りでした。
しかし、いっこうにのどかでないのは、宵越しに鼻をつままれたままでいる伝六です。
「じれってえね、いつまで寝ているんですかよ。明けたんだ、明けたんだ。もうとっくに今日さまはのぼったんですよ」
がんがんとやりながらはいってくると、鼻をつままれた寝ざめの悪さが腹にたまっているとみえて、頭ごなしにがなりたてました。
「しゃくにさわるね。ゆうべなんていったんですかよ。朝ははええんだから道草食うなといったじゃござんせんか。つがもねえひとり者がまくらと添い寝をやって、何がそういつまでも恋しいんですかい。お重も、かまぼこも、瓢《ふくべ》も、ちゃんともう用意ができているんだ。どこへ行くか知らねえが、今のうちに起きねえと犬に食わしちまいますぜ」
朝雷もけたたましく鳴りだしたのを、
「音がいいな」
軽く受け流してぬっと夜着の中から顔を出すと、おちつきはらいながら不意にいいました。
「その鳴りぐあいじゃ切れ味もよさそうだから、威勢ついでにちょっくら月代《さかやき》をあたっておくれよ」
「な、な、なんですかい! ええ! ちょいと! 人を茶にするにもほどがあらあ、だから、ひとり者をいつまでもひとりで寝かしておきたかねえんだ。無精ったらしいっちゃありゃしねえ。寝ていて月代《さかやき》をそれとは、何がなんですかよ」
「何がなんでもねえよ。じゃいじゃいあたりゃいいんだ、早くしなよ」
「いやですよ」
「じゃ、おいていくぜ。おいら、花見に行くんだからね。それでもいやかい」
「てへへへ……そうですかい! そうですかい! ちくしょうッ。いいだんなだね。なんてまあいいだんなだろうな。あたりますよ! あたりますよ! それならそうと、変に気を持たせねえで、はじめからおっしゃりゃいいんだ。あたりますとも! あたりますとも! あたるなといったってあたりますよ! べらぼうめッ。忙しくなりゃがったね。――どこだ。どこだ、金だらいはどけへいったんだよ! てへへ。うれしがって金だらいまでががんがん鳴ってらあ。――ね! ほら! あたりますよ。じゃい、じゃいとね」
「やかましいな。節をつけてそらなくともいいよ」
「よかアねえんだ。威勢ついでにあたれとおっしゃったからね、景気をつけているんですよ。ね、ほら、じゃいといって、じゃいといって、じゃい、じゃいとね。できました、できました。へえ、お待ちどうさま」
「ばかにはええな。まだらにあたったんじゃあるめえね」
「少しくれえあったって、がまんおしなせえよ。こうなりゃはええほうがいいんだからね。お召し物は?」
「糸織りだ」
「出ました、出ました。それから?」
「博多《はかた》の袋帯だ」
「ござんす、ござんす、それから?」
「おまんまだ」
「ござんす、ござんす。それから?」
「…………」
「え! ちょっと! かなわねえな。もう出かけたんですかい」
すうと立ち上がると、蝋色鞘《ろいろざや》を落として、差して、早い、早い。声もないが、足も早いのです。
行くほどに、急ぐほどに、町は春、春。ちまたは春です。鐘は上野か浅草か、八百八町は花に曇って、浮きたつ、浮きたつ。うきうきと足が浮きたつ……。
「てへへ。参るほどに、もはや上野でおじゃる、というやつだ。歌人にはなりてえもんだね。ひとり寝るのはいやなれど、花が咲くゆえがまんできけり、というやつアこれなんだ。たまらねえ景色じゃござんせんかい。え! だんな?」
「…………」
「ちぇッ。またそれをお始めだ。世間つきあいてえものがあるんですよ、おつきあいてえものがね。みんなが浮かれているときゃ、義理にも陽気な顔をすりゃいいんだ。しんねりむっつりとまた苦虫づらをやりだして、なんのことですかよ。――よせやい。酔っぱらい。ぶつかるなよ。でも、いいこころもちだね。えへへへ。花は散る散る、伝六ア踊る。踊る太鼓の音がさえる、とね。――よッ。はてな」
ぴたりと鳴り音を止めて、ややしばしわが目を疑うように見守っていたけはいでしたが、とつぜんけたたましい声をあげました。
「いますぜ! いますぜ! ね、ね、ちょっと! お蘭しごきが二十本ばかり。大浮かれに浮かれていやがりますぜ」
おどろいたのも無理はない。ひとり、ふたり、三人、五人、いや、全部ではまさしく二十四人、その二十四人のお腰元たちが、丘を隔てて真向こうの桜並み木のその下に、加賀家ご定紋の梅ばち染めたる幔幕《まんまく》を張りめぐらしながら、いずれもそろって下町好みの大振りそでに、なぞのしごきのお蘭結びを花のごとくにちらちらさせて、梅ばちくずしのあの手ぬぐいを伊達《だて》の春駒《はるごま》かぶりにそろえながら、足拍子手拍子もろとも、いまや天下は春と踊り狂っていたからです。しかも、この踊りがまた尋常でないのでした。夜ごとのお屋敷勤めにきょうばかりは世間晴れての無礼講とあってか、下町好みのその姿のごとくに、歌も踊りもずっといきに砕けて、三味線《しゃみせん》太鼓に合わせながら、エイサッサ、コラサノサッサと婉《えん》になまめかしく舞い狂っているのです。
「おつだね。そろいのあの腰の江戸紫がおつですよ。ね、ちょいと。え! だんな!」
「ひとり足りねえようだな」
「なんです、なんです。何がひとり足りねえんですかい」
「しごきも二十五本、手ぬぐいも二十五本、両方同じ数をそろえて加賀家へ納めたと紅徳のおやじがいったじゃねえかよ。だのに、二十四人しきゃいねえから、ひとり足りねえといってるんだ。ちっとそれが気になるが、まあいいや。ひと目に手踊りの見物できるような場所を選んで、早く店を開きなよ」
「話せるね。むっつりだんなになっているときゃしゃくにさわるだんなだが、こういうことになるとにっこりだんなになるんだから、うれしいんですよ。おらがまた気のきくたちでね。おおかた筋書きゃこうくるだろうと、出がけに敷き物をちゃんと用意してきたんだ。へえ、お待ちどうさま。そちらがうずら、こちらが平土間、見物席ゃよりどりお好みしだいですよ」
どっかりすわると、不思議です。さっそくことばどおり手踊り見物でもやるかと思いのほかに、名人はそのままくるりと背を向けて寝そべると、伝六なぞにはさらにおかまいもなく、もぞりもぞりとあごの下をなではじめました。
「くやしいね。なんてまた色消しなまねするんでしょうね。ちっとほめると、じきにその手を出すんだからね。え! ちょいと! 起きなせえよ!」
「…………」
「ね! だんな!――むかむかするね。酒の味が変わるじゃござんせんかよ、ゆうべ夜中までかかって、せっかくあっしがこせえたごちそうなんだ。せめてひと口ぐれえ、義理にもつまんでおくんなせえよ」
だが、もう声はない。鳴れど起こせど、散るは桜、花のふぶきにちらりもぞりとあごをまさぐって、見向きもしないのです。
「ようござんす! 覚えてらっしゃいよ!、べらぼうッ。意地になってもひとりで飲んでみせらあ。――えへへ。これはいらっしゃい。あなたおひとりで。へえ、さようで。では、お酌をいたします。これは恐縮、すみませんね。おっと、散ります、散ります。ウウイ。いいこころもちだ。さあ来い、野郎、歌ってやるぞ。木《き》イ曽《そ》のネエ、ときやがった」
ヨヤサノ、ヨヤサノ、コラサッサ。
「伝六さアまはここざんす」
ならば行きましょ、西国へ。
女夫《めおと》ふたりの札参り。
じゃか、じゃか、じゃと踊って舞って、お蘭しごきの二十四人が向こうとこちらに声を合わせつつ、伝六ここをせんどと大浮かれです。
「品川沖から入道が、八本足の入道が、上がった、上がった、ねえ、だんな」
ほんに、寝顔がよいそうな。
意気な殿御にしっぽりと。
「ぬれたあとから花が散る。コラサノサアのさあこいだ。ねえ、だんな、いっぺえどうですかい」
せつな!
ザアという雨でした。花のころにはつきもののにわか雨です。
とたん! 右往左往と右に走り左に逃げて、雨を避けながら走りまどう浮かれ女、浮かれ男の群衆の中から、とつぜん絹を裂くようないくつかの女の悲鳴があがりました。
「お出会いくださいまし!」
「お出会いくださいまし!」
「どろぼうでござります! お山同心さま!」
「くせ者でござります。くせ者が出ましてござります」
「しごきどろほうでござります」
「え! ちくしょうッ。だんな、だんな。出やがった、出やがった。ね、ほら、ほら! あれが出やがったんですよ」
おどろいたのは、品川沖から上がったつもりで、たこも入道のひょっとこ踊りに浮かれ騒いでいた伝六です。うちうろたえて、ひょろひょろと立ち上がったその目の先を、なるほど走る。走る。三人! 五人! いや、六人! 八人!
いずれもそれがならずもの、遊び人、すり、きんちゃくきりといったような風体のものばかりで、奪っては追いかけ、追いかけては奪い取って逃げ走るそのあとを、ぶっさき羽織、くくりばかま姿の上野お山詰め同心たちが追いかけながら、逃げまどうそれらの人の間をまた、雨と突然の変事におどろき逃げ走る群衆が右往左往と駆け違って、ひとときまえの極楽山はたちまち騒然と落花|狼藉《ろうぜき》阿鼻《あび》叫喚の地獄山と変わりました。
だが、名人はいかにもおちついているのです。叫びを聞くやもろとも、さっと起き上がったので、すぐにも押えに駆けだすだろうと思われたのに、そのままじっとたたずみながら、おいらはこれを待っていたんだというように、烱々《けいけい》とまなこを光らして、ひとり、ふたり、三人とお山同心たちの手に押えられていくしごき掏摸《すり》の姿と数を見しらべていましたが、そのときはしなくも目に映ったのは、群衆の向こうの桜の小陰から半身をのぞかせて、怪しく目を光らせながら様子を見守ってい
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