ね」
「少しくれえあったって、がまんおしなせえよ。こうなりゃはええほうがいいんだからね。お召し物は?」
「糸織りだ」
「出ました、出ました。それから?」
「博多《はかた》の袋帯だ」
「ござんす、ござんす、それから?」
「おまんまだ」
「ござんす、ござんす。それから?」
「…………」
「え! ちょっと! かなわねえな。もう出かけたんですかい」
すうと立ち上がると、蝋色鞘《ろいろざや》を落として、差して、早い、早い。声もないが、足も早いのです。
行くほどに、急ぐほどに、町は春、春。ちまたは春です。鐘は上野か浅草か、八百八町は花に曇って、浮きたつ、浮きたつ。うきうきと足が浮きたつ……。
「てへへ。参るほどに、もはや上野でおじゃる、というやつだ。歌人にはなりてえもんだね。ひとり寝るのはいやなれど、花が咲くゆえがまんできけり、というやつアこれなんだ。たまらねえ景色じゃござんせんかい。え! だんな?」
「…………」
「ちぇッ。またそれをお始めだ。世間つきあいてえものがあるんですよ、おつきあいてえものがね。みんなが浮かれているときゃ、義理にも陽気な顔をすりゃいいんだ。しんねりむっつりとまた苦虫づらをやりだして、なんのことですかよ。――よせやい。酔っぱらい。ぶつかるなよ。でも、いいこころもちだね。えへへへ。花は散る散る、伝六ア踊る。踊る太鼓の音がさえる、とね。――よッ。はてな」
ぴたりと鳴り音を止めて、ややしばしわが目を疑うように見守っていたけはいでしたが、とつぜんけたたましい声をあげました。
「いますぜ! いますぜ! ね、ね、ちょっと! お蘭しごきが二十本ばかり。大浮かれに浮かれていやがりますぜ」
おどろいたのも無理はない。ひとり、ふたり、三人、五人、いや、全部ではまさしく二十四人、その二十四人のお腰元たちが、丘を隔てて真向こうの桜並み木のその下に、加賀家ご定紋の梅ばち染めたる幔幕《まんまく》を張りめぐらしながら、いずれもそろって下町好みの大振りそでに、なぞのしごきのお蘭結びを花のごとくにちらちらさせて、梅ばちくずしのあの手ぬぐいを伊達《だて》の春駒《はるごま》かぶりにそろえながら、足拍子手拍子もろとも、いまや天下は春と踊り狂っていたからです。しかも、この踊りがまた尋常でないのでした。夜ごとのお屋敷勤めにきょうばかりは世間晴れての無礼講とあってか、下町好みのその姿のごとくに、歌も踊りもずっといきに砕けて、三味線《しゃみせん》太鼓に合わせながら、エイサッサ、コラサノサッサと婉《えん》になまめかしく舞い狂っているのです。
「おつだね。そろいのあの腰の江戸紫がおつですよ。ね、ちょいと。え! だんな!」
「ひとり足りねえようだな」
「なんです、なんです。何がひとり足りねえんですかい」
「しごきも二十五本、手ぬぐいも二十五本、両方同じ数をそろえて加賀家へ納めたと紅徳のおやじがいったじゃねえかよ。だのに、二十四人しきゃいねえから、ひとり足りねえといってるんだ。ちっとそれが気になるが、まあいいや。ひと目に手踊りの見物できるような場所を選んで、早く店を開きなよ」
「話せるね。むっつりだんなになっているときゃしゃくにさわるだんなだが、こういうことになるとにっこりだんなになるんだから、うれしいんですよ。おらがまた気のきくたちでね。おおかた筋書きゃこうくるだろうと、出がけに敷き物をちゃんと用意してきたんだ。へえ、お待ちどうさま。そちらがうずら、こちらが平土間、見物席ゃよりどりお好みしだいですよ」
どっかりすわると、不思議です。さっそくことばどおり手踊り見物でもやるかと思いのほかに、名人はそのままくるりと背を向けて寝そべると、伝六なぞにはさらにおかまいもなく、もぞりもぞりとあごの下をなではじめました。
「くやしいね。なんてまた色消しなまねするんでしょうね。ちっとほめると、じきにその手を出すんだからね。え! ちょいと! 起きなせえよ!」
「…………」
「ね! だんな!――むかむかするね。酒の味が変わるじゃござんせんかよ、ゆうべ夜中までかかって、せっかくあっしがこせえたごちそうなんだ。せめてひと口ぐれえ、義理にもつまんでおくんなせえよ」
だが、もう声はない。鳴れど起こせど、散るは桜、花のふぶきにちらりもぞりとあごをまさぐって、見向きもしないのです。
「ようござんす! 覚えてらっしゃいよ!、べらぼうッ。意地になってもひとりで飲んでみせらあ。――えへへ。これはいらっしゃい。あなたおひとりで。へえ、さようで。では、お酌をいたします。これは恐縮、すみませんね。おっと、散ります、散ります。ウウイ。いいこころもちだ。さあ来い、野郎、歌ってやるぞ。木《き》イ曽《そ》のネエ、ときやがった」
ヨヤサノ、ヨヤサノ、コラサッサ。
「伝六さアまはここざんす」
ならば行きましょ
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