待ちなさいよ、薄情だな。やけにそんなに急がなくともいいじゃござんせんか! 今夜ばかりは、いやがらせをしないでおくんなさい! え! だんな!」
「…………」
「ね! ちょいと! 意地曲がりだな。どこへいったい行くんですかよ! ねらわれているな、あっしなんだ。だんなは草香流をお持ちだからいいかもしれねえが、おらがの十手はときどきさびを吹いてものをいわなくなるんですよ。ね! ちょいと!」
「…………」
「やりきれねえな。今夜は別なんだ。黙ってりゃ、いまにもねらわれそうで気味がわりいんだから、子分がかわいけりゃ人助けだと思って、なんとかうそにも景気をつけておくんなさいよ」
だが、もとより返事はないのです。――季節はちょうどまた花どきの宵《よい》ざかり。それゆえにこそ、花のたよりも上野、品川、道灌山《どうかんやま》からとうに八百八町を訪れつくして、夜桜探りの行きか帰りか、浮かれ歩く人の姿が魔像のような影をひきながら、町は今が人出の盛りでした。
いうがごとくつけている者があるとしたら、尾行者にとっては人出のその盛りこそ、まことに屈強至極です。ねらわれているとしたら、また伝六にはこのうえもなくふつごう千万なのでした。自身もまたそれが恐ろしいとみえて、しきりとびくびくしながら、うしろ、前、左右に絶え間なく目を配って探ったが、しかしそれと思わしい者の影はない。だのに、名人がまた知ってのことか、わざとにか、いっこうにむとんちゃくなのです。つけていようがいまいが気にも止めないような様子で、さっさと通りを急ぎながら、やがて目ざしていったところは、そこの京橋ぎわの老舗《しにせ》らしいひと構えでした。
見ると、夜目にもそれとわかる大きな看板がある。
「加賀家御用お染め物師 紅屋|徳兵衛《とくべえ》」
としてあるのです。
「えへへ。なるほど、そうでしたかい。なるほどね」
およそ途方もなく気の変わる男でした。鳴りに鳴っていたのに、血めぐりの大まかな伝六にも、加賀家お出入りの染め物師とある看板を見てはぴんときたとみえて、たちまち悦に入りながら、声からしてが上きげんでした。
「やけにうれしくなりゃがったね。このくれえのことなら、いくらあっしだっても眼《がん》がつくんですよ。それならそうと、出がけからいやいいのに、草香流が湯気をたてているのなんのと荒っぽいことをおっしゃったんで、あっしゃてっきりおどし文句の本尊の根城にでも乗り込むんだろうと肝を冷やしていたんですよ。ここへ来たからにゃ、お蘭しごきもここで染めあげたにちげえねえとおにらみなすってのことでしょうね」
「決まってらあ、江戸紫が紅徳か、紅徳が江戸紫かといわれているほどの名をとった老舗《しにせ》なんだ。加賀百万石の御用染め屋で、お蘭が加州家奥勤めのお腰元だったら、しごきもここが染め元と眼《がん》をつけるなあたりまえじゃねえかよ。むっつりしてはおっても、やることはいつだってもこのとおり筋道が通っているんだ、気をつけな」
「ちげえねえ!――おやじ、おやじ、紅屋のおやじ! おまえもちっと気をつけな。むっつり右門のだんなが詮議《せんぎ》の筋あって、わざわざのお越しなんだ。気をつけてものをいわねえと首が飛ぶぞッ」
「は……? なんでござんす? やにわとおしかりでございますが、てまえが何をしたんでござんす?」
びっくりしたのは紅屋徳兵衛です。そこの店先にすわって、商売物のもう用済みになったらしい染め型紙をあんどんの灯《ほ》ざしにすかしてはながめ、ながめてはすかしつつ、一枚一枚と余念もなく見しらべていたところへ、ああいえばこういって口ばかりはけっして抜からぬ伝六、いっこうに筋道の通らぬどなり声が不意に飛んでいったので、不審げに目をみはりながらふり向いたその顔へ、名人の声が静かに襲いました。
「精が出るな、景気はどうかい」
「上がったり下がったりでござんす」
「世間の景気を聞いているんじゃねえんだ。おまえのところの景気だよ」
「下がったり上がったりでござんす」
「味にからまったことをいうおやじだな、お蘭しごきの売れ行きはどんなかい」
「売れたり売れなんだりでござんす」
「控えろ、何をちゃかしたことを申すかッ。神妙に申し立てぬと、生きのいい啖呵《たんか》が飛んでいくぞッ」
「それならばこちらでいうこと、かりにも加賀|大納言《だいなごん》さまお声がかりの御用商人でござんす。あいさつもなく飛び込んできて、何を横柄《おうへい》なことをおっしゃりますかい」
「とらの威をかるなッ」
姿もひねこびれたおやじですが、いうこともまたひねこびれたおやじです。前田家出入りに鼻を高めたその鼻の先へ、すさまじくほんとうに生きのいい啖呵《たんか》が飛びかかりました。
「この巻き羽織、目にはいらぬかッ。加賀のお城下ならいざ知らず、八百万石お
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