そんなことぐれえ知らねえでどうするんかい。加賀様の奥仕えのお腰元のお蘭というべっぴんが思いついて、江戸紫に今のその鹿の子絞りを染めさせ、袋仕立ての広幅にこしらえさせて、ふっさりふさのように結んでたらしたぐあいがいかにもいきで上品なところから、お蘭しごきという名が出たんだよ。くさやの干物とまちがえるようなおにいさんに手の出るような安い品じゃねえんだ。よりによってお蘭しごきばかりねらいとるたアただ者じゃあるめえ。慈悲をかけてお出ましになってやるから、したくしな」
「ちぇッ。ありがてえ。ちくしょうめ。だから、歌もよむものなんだ。春が来て花が咲くゆえとよんだればこそ、しごきどろぼうもだんなのお目に止まったじゃねえかよ。察するに、イの字とロの字のきちげえにちげえねえんだ。でなきゃ、よしやお蘭しごきが一本三両しようと五両しようと、おかしなところをつるりとなでて、わざわざ腰に締めているのを抜きとるなんて、人ぎきのわりいまねをするはずあねえんだから、べらぼうめ、おらがに断わりなしで江戸の女に手を触れるってえことからしてが、かんべんならねえんだ。おしたくがよければ出かけますぜ!」
どこへ行くつもりなのか、ひとりで勢い込んでいるとき、けたたましく表口から呼びたてる声が聞こえました。
「だんなだんな、だんなはどちらでござんす!」[#「ござんす!」」は底本では「ござんす!「」]
「だれだ、だれだ。どこのどいつだよ。ただだんなじゃわからねえや。今ここに、だんなはふたりいるんだ。右門のだんなか、伝六だんなか、どっちだよ」
「そういう伝だんなでござんす。あんたに、伝だんなにちょっくら用があるんですよ」
「えへへ。うれしいことをいやがるね。伝だんなとは気に入ったね。待ちな、待ちな、今あけるからな。――そら、見てくんな。これが伝だんなのお顔だ。わざわざおれに用とは、どこのだれだよ」
ことごとく上きげんでぬっと顔を出しながらのぞいてみると、――いないのです。影もない。姿もない。たしかに声も足音も聞こえたのに、人影はおろか、犬の子すらも生き物の影は皆無でした。
「ちくしょうッ。気味のわるいまねをしやがるね、よしねえよ、よしねえよ。隠れたってだめなんだから、ふざけたまねはよしねえよ」
いぶかりながら、なにげなくひょいと足もとを見つめると、はからずも目を射たものはぶきみな一通の書状でした。あて名はない
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