伊豆守と、その明知に畏服《いふく》することだれにもまさる名人右門とのやりとりは、意気も器量もぴたりと合って、つねにかくのごとくさわやかでした。――騒ぎもまたぴたりと静まって、押えつけていた近侍の面々が手を引くと同時に、はじめて直訴人の姿が雪の中から現われました。
 年のころは六十あまり、常人ではない。一見するに凛烈《りんれつ》、人を圧するような気品と凄気《せいき》をたたえて羽織はかまに威儀を正しながら雪の道に平伏している姿は、どうやら、一芸一能に達した名工、といった風貌《ふうぼう》の老人なのです。――ひざまずいたまま烱々《けいけい》とまなこを光らして名人は、ややしばし老直訴人の姿をじいっとうち見守っていたかと見えたが、さすがは慧眼《けいがん》無双、そちひとりおらばと名宰相が折り紙つけただけのことがあって、せつなのうちにもうあの眼《がん》がさえ渡りました。
「御前! 火急のお計らいが肝心でござります。必死の覚悟とみえまして、まさしく訴人は切腹しておりまするぞ」
「なにッ」
「みるみるうちに顔色の変わりましたが第一の証拠、直訴を遂げて気の張り衰えましたか、五体にただならぬ苦痛の色が見えまするでござります」
「いかさまのう。調べてみい」
 にじり寄って懐中を探ってみると同時に、果然、前腹からわき腹にかけて幾重にも堅くきりきりとさらしもめんの巻かれてあるのがその手にさわりました。直訴を遂げてしまうまでは死ぬまじ、倒れまじと、出血を防ぐために切腹した上をきりきりと巻き止めて、苦痛をこらえつつ伊豆守のご参着を待ちうけていたにちがいないのです。それが証拠には、さし入れた名人のその手に、にじみ出ていた生血がべっとりと触れました。もとより事は急、壮烈きわまりない訴人のその覚悟を見ては、ちゅうちょしている場合でないのです。とっさに、名人は血によごれたその手をさっと開いてさし出すと、目にものをいわせつつ伊豆守の処断を促しました。
「かくのとおり、みごとな覚悟にござります。殿、ご賢慮のほどは?」
「いかさま必死とみゆるな。命までもなげうって直訴するとは、あっぱれ憎いやつめがッ。そち、しかと、――のう!」
「はッ」
「あいわかったか、予に成り代わって、ふびんなそのふらち者じゅうぶんに取り調べたうえ、ねんごろにいたわって、しかとしかりつけい!」
「心得ました。ご諚どおりしかりつけまするでござります」
「いつもながら小気味のよいやつよのう。――ご僧! ご案内所望つかまつる」
「はッ、控えおりまする。ご老中さまご参拝イ」
 しいんと身の引き締まるような声とともに、宰相伊豆守の烏帽子《えぼし》姿は、なにごともなかったもののごとく、威風あたりを払いながら、さっそうとして山門の奥に消え去りました。同時です。名宰相伊豆守と名人右門との胸から胸へ、腹から腹へ、言外になぞを含ませた直訴お聞き届けのその応対をきいてにわかに気力がうせたか、年老いた訴人は、最後の悲痛な、しかし満足げな微笑をただ一つ残すと、がっくり雪の道にうっ伏して、そのまま落ち入りました。
「おみごとじゃ。ご老人、安心して参られよ。なんの願いか知らぬが、訴状は右門しかと預かり申した。必ずともにお力となってしんぜまするぞ」
 見ながめるや、時を移さずにじり寄って叫びささやきながら、すばやく訴人の手から直訴状をぬきとって懐中すると、待ち構えていた小者たちのところへ目まぜが飛びました。同時に、五、六名がはせつける。一瞬の間にむくろが取りのぞかれる。清めの塩花が道いっぱいにふりまかれて、ふたたび清らかに箒目《ほうきめ》のたてられたお成り道へ、
「堀《ほり》丹羽守《たんばのかみ》様ア――」
「太田|摂津守《せっつのかみ》様ア――」
「石川|備中守《びっちゅうのかみ》様ア――」
 声から声がつづいて、待ちうけていたお跡参りの乗り物があとからあとからと、洪水《こうずい》のように流れだしました。――目だたぬように名人はすばやく下乗札の陰に身を引くと、静かに直訴状を取り出して押し開きました。同時に、目を射た文字が、じつに不審なのです。

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子を思う親の心は上下みな一つと存じ候《そうろう》。お取り上げこれなきをさらさらお恨みには存ぜず候《そうら》えどもご政道に依怙《えこ》のお沙汰《さた》あるときは天下乱る。
  ご賢察|奉願上候《ねがいあげたてまつりそうろう》。
   芝入舟町|甚七店《じんしちだな》 束巻師《つかまきし》 源五兵衛《げんごべえ》
    謹上《つつしんでたてまつる》
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 墨痕《ぼっこん》あざやかに書かれてあったのは、右のような不思議きわまりない幾文字かでした。かりにもご禁制のおきてを犯してあまつさえ一命を投げ捨ててまでも直訴するからには、少なくももっと容易ならぬ
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