文言を連ねておくのが普通であるのに、ご賢察奉願上候とあっさり訴えてあるのです。
何のなぞ?
何の直訴か?
不審なその訴状を見ては、いかな名人右門もはたと当惑するだろうと思われたのに、いつもながらじつにおそるべき慧眼《けいがん》でした。上から下とすらすら読み下すや同時に、早くもなにごとか看破するところがあったとみえて、さわやかな微笑をほころばせながら、静かに下馬札の陰から姿を見せると、群れたかる黒山の群衆を望んで、しきりと何者かを捜し求めました。せつなです。
「あっしですかい! あっしですかい! え? だんな。お捜しになっているのはあっしでしょうね。まだかまだかと、しびれをきらして待ってたんだ。行きますよ、行きますよ。今めえります」
聞いたような音色が突如として群衆の中から揚がったかと見るまに、ここをせんどと得意顔をうちふりながら、ひょこひょこと駆けだしてきたのは、だれでもない伝六でした。しかも、これがいっこうにおかまいもなく、豪儀と大立て者にでもなったようなつもりで、さっそくもう始めました。
「ざまあみろい。ちくしょう! まったく胸がすうとすらあね。どんぐり眼でしゃちこばっているやつらが今もあそこに何百匹並んでいるか知らねえが、用だ、あいきた、あっしでしょうねと、目から腹へ話のできる者ア、はばかりながらこの伝六様ひとりきりなんだからね。来ましたよ、来ましたよ。ね、ちょいと。御用の筋ゃなんですかい、お駕籠《かご》ですかい」
ひとりで心得ながら、得意になってはせつけたのを、むっつり流十八番、にこりともしないのです。黙ってぬうと伝六の手にあのなぞ深い直訴状を渡しておくと、
「忙しいんだ。ついてこい」
いうように、黙々としてそでの雪を払いおとしながら、群れ騒ぐ群衆の間を押し分けて、さっさと道を急ぎました。
2
しかも、早い。じつに早い。
さすがの伝六も毒気を抜かれて、追いつくことも鳴ることもできないほどにすばらしく早いのです。大またにすたすたと裏小路へ抜けて、金看板のむっつりぶりもあざやかに、一路目ざした方角がまたじつに意外でした。何を訴えた訴状であるか、直訴の的はどこにあるか、なぞを解くならまず第一番に訴人が住まいの入舟町へはせつけて、そこから先に手を染めるのが事の順序であろうと思われたのに、奇怪にも目ざした道はまがうかたなく数寄屋橋《すきやばし》のあのお番所なのです。
「ああ、くやしい。くやしすぎて目がくらみやがった。どうせね、え、え、そうでしょうとも。どうせあっしなんぞはね――」
ようやく追いついた伝六が、よくよくくやしかったとみえて、陰にからまりながら鳴りだしたのは無理のないことでした。
「どうせそうでしょうよ。え、え、そうでしょうとも、どうせあっしなんぞは血のめぐりもわりいし、いつまでたっても人前で恥をかかされるようにできた人間なんだからね。さぞやだんなはあっしに赤っ恥をかかせていい心持ちでしょうが、それにしても場合というものがあるんだ。場合がね、え? だんな!」
「…………」
「くやしいね。どれだけいやがらせをしたらお気が済むんですかい。ちっとはあっしの身にもなってみるといいんだ。なんしろ、時が時だし、人出もあのとおりの人出なんだからね。とちっちゃならねえ、男をたてずばなるめえと思ったればこそ、だんなが御用というまで、がまんにがまんをして待っていたんですよ。ところへ、お顔が下馬札の陰からぬっとのぞいたんだ。うれしかったね。え、だんな。考えてもみりゃいいというのはここですよ。きのうやきょうの仲じゃねえんだからね。死なばもろとも、出世もいっしょと、口にこそ出して約束したんじゃねえが、あっしが女だったら、人さまにやかれるほどもうれしい仲なんだ。なればこそ、しめたとばかり――」
「うるさいね」
「いいえ、きょうはいうんだ。なにも、ああまで人前で恥をかかせなくともいいんだからね。きょうは腹の虫がいえるまでいいますよ。うるさかったら、だんなもとっくり考えてみりゃわかるんだ。いまかいまかと待っていたところへ、ぬうとお顔がのぞいたんでね、さてこそおれの出幕だ、話せるね、いい気性だよ、あっしに花を持たせるおつもりなんだと思ったればこそ、喜んで勇んで飛んでもいったのに、ありゃなんです。あのまねゃなんです! ぬうと出して、ぬうとそっぽを向いて、ありゃいったいなんのまねですかよ!」
「…………」
「え! だんな! ね、ちょっと!――くやしいね。なんてまたきょうはやけにそう足がはええんだろうな。そんなにお急ぎだったらおごりゃいいんだ。気まえよく駕籠をおごりゃいいんですよ。ね! ちょっと! だんなってたらだんな!」
「…………」
「しゃくにさわるね、あっしがうるさくいうんで、意地わるに急ぐんだったら、あっしも意地わるく
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