る。
「お着ウ。伊豆守様ア――」
「お迎イ。ただいまア――」
 応じ合って、お出迎え申しあげた寺僧の会釈をうけつつ、静かにお駕籠を降りた烏帽子《えぼし》姿のけだかき威厳!――しいんと鳴りを静めていた群衆は、さらにしいんと鳴りを静めて、等しくえりを正したのも名宰相伊豆守なればこそでした。
 しかし、そのせつなです。突如、黒山の群衆のその水を打ったように静まり返っていた一点が、さっとくずれたったかと見るまに、人影がばたばたと雪をけりつつ、駆けだすと、いまし山門に向かって歩みだそうとしていた伊豆守の行く手左わきにぴたり、もろひざを折り敷きながら、必死に呼びたてました。
「一期の願い、お慈悲でござります! この訴状お取り上げくださりませい! お願いでござります! お慈悲でござります!」
「…………」
「直訴じゃなッ」
「ならぬ!」
「さがれい!」
「不届き者めがッ!」
「押えろッ、押えろッ」
「取って押えい!」
 もとより直訴は天下のご法度《はっと》、沸然《ふつぜん》としてわきたったのは当然なことです。声が飛び、人が飛んで、訴人はたちまち近侍の者たちが高手小手。ご行列は乱れる、雪は散る、喧々囂々《けんけんごうごう》と騒ぎたてた群集をけちらして、表警備、忍び警備、隠れ警備の任についていた町方一統の面々が先を争いながら駆けつけると、われこそ宰相の御意にかなおうといわぬばかりに、ぐるぐると伊豆守のお身まわりに寄り添いながら、その下知を待ちうけました。
 しかし、伊豆守は声がないのです。何者かの姿を捜し求めるかのように、しきりとあたりを見まわしていられましたが、そのときふとお目に止まったのは、だれでもない、じつにだれでもない、わが捕物名人右門の姿でした。しかも、名人がまた騒がないのです。
「てまえならばここに――」
 いうようにひざまずくと、胸から胸へ、目から目へ、千語万語にまさる無言の目まぜをじっと送りました。同時に、宰相の口から、うれしい鶴《つる》のひと声がかかりました。
「おう、やはり参っておったか! 捜したぞ。――余の者どもに用はない。行けッ、行けッ。右門ひとりがおらばたくさんじゃ。みなひけい!」
 まことに、まったくこんな胸のすく一語というものはない。大鴻《たいこう》よく大鴻の志を知り、名手よく名剣の切れ味を知るとはまさにこれです。その力量を信ずることだれよりも厚い名宰相
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