わしでした。火気いっさいをお禁じになるのです。
「豪勢なもんさ。この寒いのに、火をたいちゃならねえというんだからね」
「そうよ。おまんまはどうするんだ、おまんまをな。火の気を使っていけなきゃ、お茶一つ口にすることもできねえじゃねえかよ。つがもねえ。こちとら下々の者は人間じゃねえと思ってらっしゃる[#「思ってらっしゃる」は底本では「思ってらしゃる」]んだからな。おたげえ来世はねこにでもなることよ」
 なぞと、うそにも陰口をきこうものなら、下民の分際をもって、上ご政道をとやかく申せし段ふらち至極とあって、これがまず入牢《じゅろう》二十日。糸ほどの煙を見せてもお目ざわりとあって禁じられるくらいですから、のぞき見はいうまでもないこと、二階のある町家はもちろんこれを締めきって、節穴という節穴は残らず目張りを命ぜられるほどの手きびしさでした。
「お手はず万端整いましてござります」
 やがてのことに、ご奏者番からご老中職へ、ご老中からご公方《くぼう》さままで、道々のご警備その他ぬかりのない旨、ご言上が終わると、
「お成りイ――」
 の声があって、ご開門と同時にお出ましがかっきり明け七ツ。冬の朝の七ツ刻《どき》ですから、ようやく三番|鶏《どり》が鳴いたか鳴かないのかまだまっくらいうちです。かくて道中、事も起こらずに増上寺へお着きとなれば、もうあとはたわいがないくらいでした。大僧正がお介添えまいらせて、予定のとおり御霊屋《みたまや》へご参拝が終わると、ご接待というのは塩花お白湯《さゆ》がたった一杯。召し上がるか上がらないかに、
「お立ちイ――」
 の声がかかって、すぐにもう還御です。
 しかし、そのあとがじつはたいへんでした。ひきつづきお跡参りと称して、紀、尾、水のご三家をはじめ十八松平に三百諸侯、それから老中|側《そば》御用人など要路の大官連ご一統のご参拝があるからです。この数がざっと三百八十名ばかり。いずれもこの日は大紋|風折烏帽子《かざおりえぼし》の式服に威儀を正して、お乗り物は一様に長柄のお駕籠《かご》、これらのものものしい大小名が規定どおりの供人に警固されて、三|位《み》、中将、納言《なごん》、朝散太夫《ちょうさんだゆう》と位階格式|禄高《ろくだか》の順もなく、入れ替わり立ち替わり陸続としてひっきりなしにお参りするのですから、その騒々しさ混雑というものは、じつに名状しがたい
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