息を切って駆けもどってきたのは、あいきょう者のあにいでした。
「江戸っ子はもち屋までがいいきっぷをしているから、うれしくなるんですよ。きょう一日分のできたてをみんな買い占めてやったんでね、ないしょに二つまけてくれましたぜ」
「はしたないことをいうな! 早くこっちへ出しなよ」
袋ごと取って差し出すと、やさしくきょうだいにすすめました。
「遠慮はいらぬ。さぞひもじいだろうから、かってにつまんでお上がり」
「…………」
「ほほう、なかなかお行儀がよいのう。だいじない。だいじない。はようお上がり」
いわれて、姉のほうがもじもじしながら一つつまみあげたので、もちろんおのが口へ運ぶだろうと思われたのに、黙ってかたわらを顧みると、弟のほうに差し出しました。しかも、おのれはそれっきり食べようとしないのです。――飢えて飢えて口なづきするくらいにも飢えきっているのに、いただこうともしないのです――見ながめながら名人の目にはふたたびきらきらと露の玉が宿りました。そのいじらしい心にしずくが散りました。いや、散ったばかりではない。慧眼《けいがん》まことにはやぶさのごとし!
「感心なことよのう。こんなにたくさんあるのに、そなたいただきませぬのは、このおもちをうちへ持って帰って、二、三日の間のおまんま代わりにしたいためであろうのう」
「…………」
「え? そうであろうのう。それゆえ、ひもじいのをこらえて、いただかないのでありましょうのう」
あい――、というように、名も知れぬいたいけな小娘は、その目にいっぱい涙をためながら、かぶりを縦にふりました。
「ちくしょうッ、泣けやがらあ、泣けやがらあ。なんてまあ、なんてまあ、いじらしいでしょうね。べらぼうめ! どこのどいつが、こんなかわいらしい子どもたちを貧乏にしやがったんだ。――食べな! 食べな! おらのだんなは、日本一お情けぶけえおかたなんだ。ほしけりゃ、江戸じゅうの大福もちみんなでも買ってくださるんだから、どんどん食べな、腹いっぱい食べな」
そばから伝六も伝六らしいもらい泣きをしながら、必死にすすめたが、自分はこらえられるだけこらえて弟にというように、いくたびか口なづきしながらも小娘はじっと耐え忍びつつ、飢えをかくして悲しげにさし控えたままでした。――そのいじらしさ! しおらしさ! 名人はあふれあがるしずくを散るがままにまかせながら、やさしく尋問を始めました。
「よくよくつらいめに会うているとみえますのう。なれども、おじさんがこうして力になってあげますからには、もうだいじないゆえ、なにごとも隠さずに申さねばなりませぬぞ。どうした子細で、このようなことをしたのじゃ」
「…………」
「え……? どうした子細で、としはもいかぬそなたたちが、こんなことをせねばならぬのじゃ。母よ、早く帰ってきてくんなと鬼子母神さまにお願いしてあるようじゃが、そなたたちのかあやんはどこへ行ったのじゃ。のう! どこへ行ってしまったのじゃ」
問えども、きけども、どうしたことか小娘は涙をいっぱいためたままで、何も告げないのです。
しかし、そのかわりに、とつぜんそのとき表のほうが騒がしくなったかと思うや同時に、目色を変えながら、おのおの丁稚《でっち》と子もりらしいのをいっしょに引き従えて、どやどやと自身番小屋へ駆け込んできたのは、ひと目にそれとわかる裕福そうな町家のご新造連れ二組みでした。しかも、両人ともに柳眉《りゅうび》をさかだてんばかりにしながらかん高い声をあげると、異口同音にわめきたてました。
「やっぱり、うちの子でござんす! うちの子でござんす! だれがこんなところへ盗み出して捨てたんでござんしょう! そちらに寝かしてある坊やは、わたしたちのだいじなだいじなひと粒種でござんすゆえ、早く返しておくんなさいまし! 早くこちらへお返しくださいまし!」
会釈もせずに駆け上がって連れ出そうとしたのを、
「騒々しい、なにごとじゃ」
静かに名人が押えながら、ぎろり目を光らして問いなじりました。
「盗み出したとは、いったいどうしたわけじゃ」
「どうもこうもござんせぬ。ゆうべ本所の子育て観音さまに虫封じのご祈祷《きとう》がござんしたゆえ、こちらにおいでの糸屋のご新造さんとお参りに行きましてついおそうなり、疲れてそのままぐっすり寝込みましたら、いつとられましたものか、朝になってみますると、ふたりとも坊やたちを盗まれていたのでござります。それゆえぎょうてんいたしまして、大騒ぎをしておりましたところへ、いましがた日本橋に似たような捨て子があると知らしてくれた人がありましたゆえ、もしやと思って駆けつけたのでござんす。ほんに憎らしいってたらありゃしない。だれが盗み出したやら――、ま! その子じゃ! その子じゃ! 下手人はそのきょうだいに相違ござんせぬ!」
わめきたてながら、はしなくもそこに震えているなぞの小娘たちふたりを発見すると、こづきまわさんばかりにしながら、がみがみとののしりました。
「おまえじゃ! おまえたちじゃ! たしかに、下手人はおまえたちであろう! きのうの夕がたうちの前をうろうろしていた様子がうさんじゃと思うていたが、きっと夜中に忍び込んで盗み出したのじゃ! さ! 白状しませい! せねば、こうしまするぞ!」
女の身にあられもなくののしりわめきながら、新造のひとりが力まかせに小娘の手を取ってつねろうとしたのを、
「やい! 何しゃがるんだ、なんで手荒なまねしゃがるんだ」
ついと横からしゃきり出て、景気のいい啖呵《たんか》をきりながら、身をもって小娘をかばったのは、江戸っ子中の江戸っ子をもって任ずる伝あにいです。
「だれに断わって、ふざけたまねしゃがるんだ。よしんばこの小娘が子ぬすっとの下手人であろうと、うぬらにかってな吟味|折檻《せっかん》させてたまるけえ。それがために、こうやって、できのいいおらがのだんなが、わざわざとお出ましになっているんじゃねえか。てめえの子どもを盗まれても知らねえような唐変木が出すぎたまねしやがると、この伝六様が承知しねえぞ」
「…………※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「何をぱちくりやってるんだ。無傷で赤ん坊が手にけえりゃ文句はねえはずだから、とっとと抱いてうしゃがれッ[#「うしゃがれッ」は底本では「うしやがれッ」]。まごまごしてりゃ、おらがはあんまりじょうずじゃねえが、だんなの草香流はききがいいぞ」
ぱんぱんとかみつくようなすさまじいけんまくに、肝をつぶしたのは子をとられたふたりの新造たちでした。あわてふためきながら、それぞれひとりずつ抱きあげてそうそうに帰っていったのを、名人は微笑とともに見送りながらことばを和らげると、やさしく小娘にききました。
「あのとおり、みんなが騒いでじゃ。おじさんはけっしてしかりませぬゆえ、はよう何もかもいうてみい」
「…………」
「のう! なぜいわぬのじゃ。どうしてまた、よその赤ちゃんなぞをふたりも盗み出して、こんなところに捨てたのじゃ。――いうてみい! のう! はよう心配ごとをいうてみい!」
しかし、なぞの小娘は何も答えないのです。答えないで、じわりと大きなしずくをほうりおとすと、やにわに何を思いたったか、そこに残されていたあのかぼそくやせ衰えている女の子をひしと抱きしめるように取りあげながら、おどおどと恐れおののいている小さな弟を従えて、物のけにつかれでもしているかのごとく、ふらふらと表のほうに歩きだしました。しかも、同じように黙って、ただ泣きなきずんずんと通りを右に折れながら曲がっていったので、ことごとく首をひねったのは伝あにいでした。
「はあてね。まさかに、唖《おし》じゃねえでしょうね」
「…………」
「え? だんな! どうしたんでしょうね。唖なら耳が聞こえねえはずだが、こっちのいうことはちゃんと通じているんだ。通じているのにものをいわねえとは、いったいどうしたんですかね。え? ちょいと!」
「…………」
「やりきれねえな。気味わるくおちついていねえで、なんとかおっしゃいませよ。下手人はこの小娘にちげえねえんだ。さっき目色を変えて飛び込んできやがったご新造たちの口うらから察してみても、あのふたりの太った赤ん坊を盗み出して捨て子にしたのは、たしかにこの小娘にちげえねえんですよ。ね! ちょっと! 黙ってちゃわからねえんだ。黙ってたんじゃ何もわからねえんだから、なんとかおっしゃいませよ」
しかし、名人はなにごとか早くも看破せるもののごとく、黙々としてただ微笑しながら、小娘の行くほうへ行くほうへと、静かにそのあとを追いました。小娘もまた、あとをつけてきてくれたら、すべての秘密となぞが解けるといわぬばかりに、みどり子をひしと抱きながら、泣きなき歩きつづけました。――十軒店《じゅっけんだな》を左に折れて俗称願人坊主の小路といわれた伝右衛門《でんえもん》横町、その横町の狭い路地をどんどん奥へはいっていくと、奇怪です。不思議な小娘は、しめなわをものものしげに張りめぐらしたそこの右側の扶桑教《ふそうきょう》祈祷所《きとうしょ》と見える一軒へ、主従ふたりを誘うかのごとくにおどおどとはいりました。同時に、伝六が息ばりながら十手を斜《しゃ》に構えとって、たちまち音をあげたのは当然でした。
「ちくしょうッ、気味のわりいところへ連れてくりゃがったね。扶桑教といや、ちんちんもがもがの行者じゃねえですか。べらぼうめ、もったいらしくしめなわなんぞ張りめぐらしゃがって、きっと子ぬすっとのにせ行者にちげえねえんだ。さ! 出てみせろ。ただじゃおかねえんだから、出てみせろッ」
「あわてるな! がんがんと声をたてて、逃げうせたらどうするんだ。役にもたたねえ十手なんぞ引っ込めてろッ」
制しながら、名人はあごをなでなでおちつきはらって、小娘のあとからずかずかと押し入りました。
4
――その出会いがしら、がなりたてた伝六の声を聞きつけたとみえて、奥の祈祷所の中からいぶかり顔にのっそり出てきたものは、薄ぎたない白衣に同じくあかじみた白ばかまをはいたひとりの行者です。だが、その行者が、ぎろりと怪しく目が光ってひとくせありげなつらだましいでもしているだろうと思いのほかに、よぼよぼとした六十がらみの見るからに病身らしい老爺《ろうや》なのです。しかも、目がよくきかないとみえて、ためつすかしつしながら、しげしげと不意の闖入者《ちんにゅうしゃ》を見ながめていましたが、ひと目に八丁堀衆とわかる巻き羽織した名人のそでの陰に、小娘がおどおどしながらたたずんでいるのに気がつくと、やにわに顔色を変えながら、よたよたとあわてふためいて逃げ出しました。――せつな!
「大笑いだよ。足が二十本あったって、逃げられる相手と相手が違うんだ。神妙にしろ」
ふところ手をしながら、いたって静かなものです。微笑しいしい、とっさにずいと名人がその行く手をふさぐと、伝法にずばりと手きびしい尋問の矢が飛びました。
「逃げるからにゃ、何かうしろぐれえことをしているんだろう。すっぱりいいな」
「へえい。なんともどうも――」
「なんともどうもが、どうしたというんだ。ただ震えているだけじゃわからねえよ」
「ごもっともさまでござります。まことになんともごもっともさまでござりまするが、いかほどおしかりなさいましても、てまえにだってどうもしようがござりませなんだゆえ、てだてに困り、つい盗み出せともったいらしく知恵をつけただけのことなのでござります。それが悪いとおっしゃいますなら、相談うけたてまえも災難でござりますゆえ、どのようなおしおきでもいただきまするでござります」
「ほう。これは少し妙なことになったようだな。やぶからぼうにおかしなことをいうが、てだてに困ってもったいらしく知恵をつけたとは、何がなんだよ」
行者のいぶかしいことばに、名人の疑惑はにわかに高まりました。
「相談うけたてまえも災難だとは、いったいどんな相談うけたんだ」
「どんなといって――、では、なんでござりまするか、何もかもこの小娘からお聞きなすってお調べにお越しな
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