りだよ。だが、まず十中八、九むだ網だろうよ。ゆうべだってもあれほど四方八方へ網を張っておいて、生き埋め行者に迷って出た下手人を見のがすんだからな、そうと事が決まりゃ、おいらは今夜も湯島の三ツ又稲荷だ。夜あかししなくちゃならねえから、今のうちぐっすり寝ておきな」
「え……?」
「わからねえのかい。ゆうべ如の字の祈りを本所の四ツ[#「ツ」は底本では「ッ」]目へ打ったとすりゃ、残るところは律と令とのふた夜きりだ。一つあなの三ツ又稲荷へじっと伏せ網を張っておいたら、よしんば今夜かからなくとも、あしたの丑満時にゃいやおうなく三ツ又の網にひっかかるよ。伏せ網するならしじゅう一カ所を選ぶべし、いつかは必ず獲物あらんとは、捕物心得の手ほどきじゃねえか。つまらねえところで首をひねらずと、ぐっすり寝る勘考でもしろよ」
「いいえね、そりゃいいんだ。一つあなの三ツ又稲荷へ迷わずに伏せ網するのは大いにけっこうだがね。ちっとあっしゃくやしいんだ。人間てえものはこうも薄情なものかと思うとね、く、く、くやしいんだ。だんなの耳にこんなこと入れたかねえんだが、どうにもくやしいんですよ。く、く、くやしいんですよ」
「バカだな。なんだよ、不意にぽろぽろ泣きだして、何が悲しいんだよ」
「だってね、いま来がけに、ふたところばかりで耳に入れたんだが、江戸っ子も存外と薄情なんですよ。だんながてがらをしたときゃ、てめえらがむっつり右門になったような気どり方で、やんやというくせにね。少し手間が取れるともう、何やかやと、ろくでもねえことをいうんですよ。いつのまにか、けさの四ツ目行者のほうの一件も町じゅうにひろまったとみえてね、聞きゃあ、あば敬とむっつり右門のだんなとふたりして、きのうからお手当中だっていうが、いまだに下手人があがらねえとは情けねえじゃねえか。あんな気味のわるい人死にがこの先三日も四日もつづいたひにゃ、うっかりお堂参りもできねえやね、こんなにうわさしていやがるんだ。おまけにね、ぬかすんだ。聞いたふうなことをぬかしていたんですよ。いくらかむっつり右門のだんなにも、焼きが回ったかとね。人の苦労も知らねえで、こんなにつべこべといっていたんですよ。だから、あっしゃ……だから、あっしゃ、く、くやしくてなんねえんだ。くやしくてならねえんですよ」
「ウフフフフフ、そんなことで泣くのがあるかよ。つがもねえ。手間がかかりゃかかっただけ、お手拍子|喝采《かっさい》も大きいというもんだ。夏やせで少し身細りするにはしたが、目にさびゃ吹いちゃいねえよ。――しとしとまた小降りになったな。秋ゃ、秋、身にしむ恋のつまびきに、そぼふる雨もなんとやら、いっそ音締めもにくらしい、というやつだ。おいらが涙をふいてやらあ、雨の音を聞きながらひと寝入りするんだから、おめえもあの押し入れからまくらを持ってきな」
 ごろり横になると、見せてやりたいくらいなあの男まえを、なんの屈託もなさそうに、もうすやすやと軽やかないびきでした。――チチチチと鳴くのはこおろぎか松虫か、恋呼ぶわびしい虫の声である。
 やがて日が暮れました。そうして夜が訪れました。暮れるに早く、ふけるにおそい秋の夜も、五ツ四ツとふけ渡って、ほどたたぬまに打ち出されたのは九ツです。と同時に、名人はさっそうとして立ち上がると、黒羽二重の着流しに目深ずきん。さっとさわやかな命令が下りました。
「忍びの駕籠《かご》だ。急いで二丁用意しろッ」
 待ってましたとばかり、伝六の早いこと、早いこと。――だが、まもなく矢玉のように飛んで帰ると、けたたましくいいました。
「いけねえ! いけねえ! 出たんだ、出たんだ。もう今夜は出ちまったというんですよ。丑の時参りがね、もう出ちまやがって、白旗金神の境内にのけぞっているというんですよ」
「へへえね。それはまたどうしたんだい」
「おおかたね、毎晩毎晩やられるんで今夜は早参りしてやろうとでも思って出かけたところをまたばらされたらしいんだが、なにしろ不意打ちなんでね、網を張っていた連中は大騒ぎなんですよ」
「どうしてそれを聞き出したんだ」
「あば敬の手下からかぎ出してきたんだがね。今そこまでいったら、つじ役人どもがうろうろしているんで、うまいことかまをかけて探ったら、しかじかかくかくであば敬の行くえを捜しているところだというんですよ」
「捜すとはまたどうしたんだい。あば敬もいっしょに張り込んでいたんじゃねえのか」
「やつあ山の手を見まわりにいったるすだというんですよ。それがまた情けねえやつらなんだが、なんでもね、白旗金神の町かどの三方に三人も張っていたくせに、いつのろい参りがやって来て、いつばらされたかも、まるで知らねえとこういうんですよ。だから、なおさらあば敬に面目がねえと、手分けしていま必死とやつの立ちまわり先を捜しているさいちゅうだというんですがね。どっちにしてもまごまごしちゃいられねえんだ。お出かけなすったらどうですかい」
「よかろう。雨はどうだ」
「もう宵《よい》のうちから降りやんでいるんですよ」
「じゃ、遠くもねえところだ。眠けざましに、お拾いで参るとしようぜ。龕燈《がんどう》の用意をしてついてきな」
 じゃのめを片手に微行しながらやっていったのは、八丁堀から目と鼻のその問題の本銀《もとかね》町白旗金神境内です。いかさま不意打ちに会ったのが面目ないとみえて、そこの境内に尾を巻きながら、まごまごしていたのは、あば敬の命令によって、そのあたり一帯に伏せ網を張っていたつじ役人どもの五、六名でした。もちろん、まだそのままになっている死骸《しがい》のそばへ近づいていってみると、はかまに大小、白たび足駄《あしだ》の藩士姿に変わりはないが、倒れている位置が少し違うのです。いつものような社殿の前でなくちょうどそこはどろの道の境内の入り口でした。いぶかって懐中に手を入れてみると、ある、ある、出てきたのは背裏に、律と書いた巳《み》年の男、二十一歳のわら人形と、金づちと、三寸くぎです。
「ほほうな。のろいうちにはいろうとしたところをやられたとみえるな。伝六、龕燈《がんどう》をかしな」
 受けとりながら、ちかり、倒れている侍の胸もとを照らし出して見ながめるや同時でした。
「よよッ」
 さえまさったおどろきの声が、名人の口から放たれました。
「あるぞ、あるぞ。妙などろの足跡が腰から胸もとにかけてついているぞ」
 一見してけだものの足跡とおぼしき梅ばち型の小さいどろ跡が点々として死骸の着物の上についているのです。いや、着物の上ばかりではない。龕燈を照らしてその付近を見しらべると、雨上がりのどろの道にもところどころに消えやらぬ同じ四つ足の足跡がはっきり残っているのでした。――烱々《けいけい》とまなこを光らして、腰から胸へ、胸から首筋へ、そのどろの足跡と、あの疑問の槍傷《やりきず》でもない、突き傷でもない、刀傷でもない不思議なえぐり傷とを、見比べ見ながめ、じっと考えていたが、まことにこの慧眼《けいがん》、この断定こそは、われらが捕物名人むっつり右門にのみ許されるすばらしい眼のさえでした。
「犬だッ。この下手人は犬と決まったぞッ」
「え! こいつあたいへんだ。ど、ど、どこに犬だと書いてありますかい!」
「胸もとの梅ばち型のどろ跡をよくみろよ。それからのど笛の傷跡だ。ぐさりとざくろの実が割れたようにえぐられているなあ紛れもなくワン公が食い切った証拠だよ。胸のどろ跡は、首をねらって飛びついたときについたんだ。雨上がりでおおしあわせよ。道がどろでぬかるんでいたからこそ眼がついたというものさ。秋雨さまさまだよ。それにしても、この犬はただものじゃねえぜ。これだけの腕も相当らしいお侍をうんともすうともいわさずに、かみ倒すんだからな。どうだい、伝あにい、そろそろとむっつりの右門も板についてきかかったが、ちがうかね」
「ちぇッ、たまらねえね。とうとう三日めで眼がつきましたかい。さあ、ことだ。さあ、話がちっとややこしくなってきやがったぞ。犬が下手人とはおどろいたね。なにしろ、四つ足のすばしっこいやつだからな。いってえどうして締めあげるんですかい。草香流もワン公を相手なら、うまくものをいわねえかもしれませんぜ」
「騒ぐな、騒ぐな。ここまで眼がつきゃ、むっつり右門の玉手箱には、いくらでも知恵薬がしまってあるんだ。そろそろとうちへけえって、あごでもなでてみようぜ。――つじ役人のかたがた、いまに敬だんなも山の手から、ご注進を受けてここへお越しだろうからな。下手人は犬に決まったとことづてしてくんな。伏せ網もそのつもりでお張りなせえとな。じゃ、伝あにい、引き揚げようぜ」

     5

 だが、帰ってみると、少しく様子がおかしいのです。山の手の見まわりについているはずの敬四郎がいつのまにか八丁堀へ引き揚げてきたとみえて、何を騒いでいるのか、そのお組屋敷のあたりは、小者たちがざわざわと去来しながら、不思議な人だかりでした。
「はあてね。なんだろうね。まさかに、やっこ先生、さじを投げたんじゃあるまいね」
 何かにつけて忙しい伝六が、いぶかりながら意外なことを伝えました。
「ちくしょうッ、やられた、やられた。なんてまあ運がわりいんだろうね。ひと足先にてがらをされたんですよ」
「なにッ。じゃ、もう下手人をあげてきたか!」
「きたどころの段じゃねえんですよ。おなわにした浪人者をひとりしょっぴいてね、おまけに今の先白旗金神で見てきた丑の時参りとそっくりなお武家の死骸をひとり、戸板に乗せて運び込んできているんですよ」
 不審に思いながら、ずかずかと近づいて、そこの庭先をのぞいてみると、いかさまひとりの浪人者がうしろ小手に結わいあげられながら、そのそばにはまた、なるほどのど笛をえぐられた羽織はかまの藩士の死骸が戸板のうえにのっかっているのです。これはまことに不思議といわざるをえない。今の先犬と眼をつけて帰ったばかりなのに、下手人が浪人者であるのも不審なら、同じような死骸が白旗金神以外のところからいま一つ現われたこともおよそ不思議なのです。――名人はのっそり近よると、あごをなでなで、ぎろり、鋭くその死骸を見ながめました。と思われたせつな、何を看破したのかさわやかに微笑すると、穏やかなことばが敬四郎のところへ放たれました。
「どうやらにせもののようだが、これはいったいどうしたんですかい」
「なにッ、にせ者とはなんだ。いらぬおせっかいだ。先手を打たれたくやしまぎれに、つまらぬけちをつけてもらうまいよ」
「いや、そうまあがみがみとことばにかどをたてるもんじゃござんせんよ。はかま大小藩士体のぐあい、のどをやられているぐあい、それに刻限のぐあいもよく似てはいますがね、まさしくこいつあにせ者ですよ。第一はこの首の傷だ、今まで手がけたやつはみんな犬にがぶりとかみ切られているのに、こりゃたしかに刀で突いた刺し傷じゃござんせんか。そちらの浪人者が下手人だというのもちっと不思議だが、いったいどこでお見つけになったんですかい」
 ずばりとみごとにホシをさされてぐっと二の句につまった敬四郎の様子を見かねたものか、そばからつじ役人のひとりが代わって答えました。
「なるほどね。そうおっしゃりゃ少し様子がおかしいが、でもこの浪人がたしかにやったんですよ。じつあ、敬だんなのおさしずがあったんでね、市《いち》ガ谷《や》八幡《はちまん》の境内に張っていたら、このおきのどくなお侍が向こうからやって来たのを見すまして、そっちの浪人者がいきなりのど輪を刺し通してから、懐中物を捜していやがったんでね、刻限の似通っているぐあいといい、首筋を刺したぐあいといい、どうやらホシにかかわりのある野郎だとにらんで、いやおうなくしょっぴいてきたんですよ」
「つがもねえ、まだ下手人のあがらねえのを世間がいろいろあしざまにいってるんで、あせってのことでしょうが、おたげえお上御用を承っている仲間なんだ。もう少し見通しのきいた仕事をしねえと笑われますぜ。懐中物をねらっていたというのが大にせ者だ。論より証拠、今までの死骸はみんな紙入れもきんちゃ
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