中の丑満時《うしみつどき》になりゃ、十本あっても足りねえほど十手が入り用になるんだから、寝るのがいやなら、そこにそうして、十手を斜に構えて、ゴーンと丑満が鳴るまで意気張っていな」
「ちぇッ。なんてまあ気のなげえ十手だろうね。あば敬はどうするんです。あば敬にしてやられたらどうするんですかよ。あの大将だって死にもの狂いに駆けずりまわっているにちげえねえんだ。さるも筆のあやまり弘法様も木から落ちるというからね。やにさがっているまにしてやられたら、どうするんですかよ」
 鳴れどたたけどもう声はない。仏道仏心|弥陀《みだ》の極意はこのひとまくらのうちにありといわぬばかりで名人は、求道弘法《ぐどうぐほう》の経巻を頭《つむり》の下にしながら、おりから聞こゆるお山の鐘を夢の国への道案内に、すやすやと心よいいびきをたてはじめました。しかも、ひとたび眠りについたとなると、なかなかに目をさまさないのです。あいきょう者の、怒り虫の、伝あにいの千鳴り太鼓が、あきれ返って眠りもやらず、二百畳のはてしもない大広間の中をかんしゃくまぎれに十手構えながら、あちらにまごまご、こちらにまごまごといったり来たりしているのもおかまいなしで、ゆうゆうと眠りつづけていましたが、とっぷり日が落ちきってしまったころになると、がばとはね起きざまに納所坊主を呼び招きながら、いともまじめくさって、おごそかにいったことでした。
「いや、どうも近ごろにないけっこうな修行をいたしました。事のついでにと申しては無心がましゅうて恐れ入るが、ちょうどお斎《とき》のころじゃ。夕食ご造作《ぞうさ》にはあずかれまいかな」
「はっ、心得ました。お目ざめになりますれば、ほかならぬあなたさまのことでござりますゆえ、たぶんそのご用がござりましょうと、もうしたくしておきましてござります」
「ほかならぬあなたさまとは、なんのことでござります」
「お隠しあそばしますな。さきほどからの不審なおふるまいといい、そちらのおかたのおにぎやかさといい、どうもご様子ががてんまいりませぬゆえ、いろいろとみなして評定いたしましたが、あなたさまこそ今ご評判の右門殿でござりましょうがな」
「あはははは、とうとう見破られましたか。それとわかれば、隠しだていたしませぬ。ちと詮議《せんぎ》いたさねばならぬことがござりますゆえ、このような無作法つかまつりましてござります。上さまご祈願所を汚しましたる不敬の数々、なにとぞお許し願わしゅう存じます」
「なんのなんの、そのごあいさつでは痛み入りまする。学頭さまもなんぞ容易ならぬ詮議の筋あってのことであろう、丁重にもてなしてしんぜいとのおことばでござりますゆえ、どうぞごゆるりとおくつろぎくださりませ」
 さすがは忍ガ岡学寮の青道心です。早くも名人の不審なふるまいをそれと看破したとみえて、まもなくそこに運ばれたのは、けっこうやかな精進料理の数々でした。
「ちぇッ。持ちたきものは知恵たくさんの親分だ。昼寝に手品があろうとは気がつかなかったね。まあごらんなせえよ。この精進料理のほどのよさというものは、またなんともかともたまらねえながめじゃござんせんか。しからば、ひとつ、おにぎやかなおかたも遠慮のうちょうだいと参りますかね」
 こんな気のいい男というものもたくさんはない。いましがたまでふぐのようにふくれていた伝六は、たちまちえびす顔に相好をくずしながら、運ぶこと、運ぶこと、はしと茶わんが宙に六方を踏んで目まぐるしいくらいでした。
 しかし、名人はなかなかに御輿《みこし》をあげないのです。兵糧とってじゅうぶんに戦備が整ったならばすぐにも出動するだろうと思われたのに、それからふたたびごろりとなって、ようやくあごをなでなで起き上がったのが深夜のちょうど九ツ。いんにこもってボーンボーンと時の鐘が打ちだされたのを耳にするや、物静かに手をたたいて呼び招いたのは、さきほどからの青道心でした。
「なんぞご用でも?」
「ちと承りたいことがござる。当山は悪魔退散邪法|調伏《ちょうぶく》の修法《すほう》をつかさどる大道場のはずゆえ、さだめしご坊たちもその道のこと詳しゅうご存じであろうが、ただいま江戸にて丑《うし》の時参りに使われる場所は、どことどこでござる」
「なるほど、そのことでござりまするか。丑の時参りは、てまえども悪魔調伏の正法を守る者にとりましては許すことのかなわぬ邪法でござりますゆえ、場所も所も知らぬ段ではござりませぬ。まず第一は練塀小路の妙見堂、つづいては柳原のひげすり閻魔《えんま》、それから湯島坂下の三《み》ツ又《また》稲荷《いなり》、少しく飛びまして本所四ツ目の生き埋め行者、つづいては日本橋|本銀町《もとかねちょう》の白旗|金神《こんじん》なぞ五カ所がまず名の知れたところでござります」
「よく教えてくれました。い
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