、だんな! 何が気に入らねえんです。え? ちょいと、だんな! 何をおこったんですかい」
 めんくらったのも無理はない。いいこころ持ちに音をあげながらひょいと見ると、すぐにも外出のしたくを始めるだろうと思われた名人が、どうしたことか、お組屋敷へ帰るやいなや、急にむっつりと黙り込んで、ゆうゆうと庭先へ降りながら、そこに並べてあったおもとのはちを、あちらへひねり、こちらへひねり、しきりとのんきそうにいじくりだしたからです。いや、そればかりではない。にわかに三、四十、年が寄りでもしたような納まり方で、紅筆と番茶の冷やしじるを持ち出すと、おもとの葉の裏と表を丹念に一枚一枚洗いだしたので、さっとたちまち伝六空がかき曇ったかと見えるやいなや、ものすさまじい朝雷がガラガラジャンジャンと鳴りだしました。
「なんです! なんです! 何がいったい気に入らねえんですかよ! だから、あっしゃいつでもむだな心配しなくちゃならねえんだ。だんなが急げといったからこそ、あわてけえっておまんまのしたくもしたじゃござんせんか。しかるになんぞや、おもとなんぞにうつつをぬかして、何がいってえおもしれえんです。ね、ちょいと、え? だんな!」
「…………」
「耳はねえんですかい。ね、ちょいと。え? だんな! だてや酔狂でがみがみいうんじゃねえんですよ。お奉行さまがおっしゃるんだ、お奉行さまがね。そうそうにお手配しかるべしと、お番所じゃいちばんえれえお奉行さまがおっしゃるんですよ、にわか隠居が日干しに会ったんじゃあるめえし、おもとなんぞとにらめっこをしていたら、何がおもしれえんですかよ。ね、ちょいと。え? だんな! 聞こえねえんですかい」
 鳴れどたたけど返事はないのです。黙々として丹念に一枚一枚葉を洗ってしまってから、ゆうゆうと食事をしたため、ゆうゆうと蝋色鞘《ろいろざや》を腰にすると、不意にずばりとあいきょう者をおどろかせていいました。
「もう大将飛び出していった時分だ。ちょっくらいって、あば敬の様子を見てきなよ」
「え……?」
「あばたの敬公の様子を見てこいといってるんだよ」
「ちぇッ。ようやく人並みに口をきくようになったかと思うと、もうそれだからな。ほんとうに、どこまで人に苦労させるんでしょうね。お差し紙の来たのはだんななんだ。あば敬のところじゃねえ、だんなのところへ来たんですよ。疱瘡神《ほうそうがみ》の
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