拝借いたしたいが、お許し願えましょうな」
「なるほど、よくわかりました。ご公務ご多忙のおかたが仏道修行とは、近ごろご奇特なことにござりまする。喜んでお手引きつかまつる段ではござりませぬゆえ、どうぞこちらへ」
 案内していったへやというのが、すさまじいことに二百畳敷きぐらいの大広間でした。しかも、その広いとも広いへやのうちには、調度も器具もなに一つないのです。まことにこれでは静かも静かもこれ以上の静かなへやはない。その大広間の、渺々《びょうびょう》として遠くかすんでみえるような広いへやのまんなかへ、ちょこなんと名人主従を待たしておくと、やがてのことに持ち運んできたのは、数十冊のあやにかしこい経典でした。
「お求めの尊いみ教えは、みなこのお経のうちにござりますゆえ、お気ままにご覧なされませ」
 言いすてながらすり足で納所坊主が立ち去っていったのを見すますと、それからがいかにも不思議でした。
「ちともったいないが、このお経をまくらにかりて、極楽の夢でも見せていただこうぜ。おまえもひと休み昼寝をやりな」
 いいつつ、お経に一礼してから、まくら代わりに積みあげて、ごろり横になると、いとも安楽そうにまなこを閉じたので、いまかいまかと十手にそりをうたしていた伝あにいが、たちまち百雷いちじに爆発させたのは当然でした。
「ちぇッ、なんですかよ! なんですかよ! 人を小バカにするにもほどがあるじゃござんせんか。十手はどうするんです! 用意しろとおっしゃった十手は、どうかたをつけるんですかよ。きのうきょうの伝六様の十手あしらいは気合いが違うんだ、気合いがね。あっしゃさっきから、もう腕を鳴らして待っているんですよ。どこにいるんです! ね、ちょいと、十手の相手のホシは、このお経の中にいるんですかい。え? だんな! どこにいるんですかよ」
「せくな、せくな。がんがんいう暇があったら寝りゃいいんだよ。お経をおつむにいただいて寝るほどありがたいことはねえんだ。極楽へ行けるように、ゆっくり休みな」
「おこりますぜ。ほんとに、人をからかうにもほどがあるじゃござんせんか。じゃ、一杯食わしたんですかい。十手の用意をしろといったな、うそなんですかい」
「うそじゃねえよ。おめえみたいなあわてものは、今から用意させておかねえと、いざ鎌倉《かまくら》というときになってとち狂うからと思って、活を入れておいたんだ。夜
前へ 次へ
全35ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング