し、なにをいうにもおひざもとっ子なんだから、人気負けなんぞするはずはねえと思うのに、三左衛門の大坂下りっていうのが珍しいのか、ふたをあけてみたらからきし江戸屋のほうに入りがねえっていうんです。だから、三左衛門がいうのには、きっとその江戸五郎が人気負けした意趣晴らしに、毎晩宿へ忍び込んで、あんなけちをつけてまわっているにちげえねえ、とこういうんですよ。でなきゃあ、行く先泊まり替えた先にまで水が降るってはずアねえんだからね、江戸五郎自身がしねえにしても、だれか忍術でも使う手下をそそのかして、あんな気味のわるいまねをさせるんだ、とこういうんです。むろんのことに、そいつあ疑いだけのことなんで、現の証拠を突きとめたわけじゃねえんだが、てっきりもう江戸屋のしわざにちげえねえと、嵐三左衛門が会う人、出会う人に吹聴《ふいちょう》したからたまらねえんです。江戸屋江戸五郎もなさけねえ了見になったもんだ。てめえの芸のまずいのはたなにあげておいて、人気の出ねえ意趣晴らしに、水いたずらをするたアなにごとだ。江戸役者のつらよごすにもほどがあらあと、まあこういうわけでね、ひいきのお客までが、すっかりあいそをつかして人気はますますおちる、それにひきかえ嵐三左衛門のほうは、幽霊水のうわさと評判がますます人気をあおりたててね、知らぬ旅先へ興行に来て、あんまりうますぎるところから、意趣を含まれるほどの役者なら、さだめしじょうずだろうと、人気が人気を呼んで、毎日毎日大入り繁盛しているというんです。――ねえ、だんな! むかっ腹をたてておくんなさいというのは、ここのところなんです。ねえだんな!」
「…………」
「え! 伝六だんな! ねえ、だんな! だんなは腹がたちゃしませんかい。おたげえ江戸っ子なら、だれだってもきっとあっしゃ腹がたつと思うんだ。考えてみてもごらんなさいまし。江戸屋の江戸五郎がほんとうにやったという、現の証拠を突きとめてのうえで、かれこれと三左衛門が人に吹聴するならもっとも至極な話なんだが、ねこがやったか、きつねがいたずらしたかもまるきし見当がつかねえうちに、罪を人に着せて、それでもって人気をあおるなんて、どう考えてもあっしゃ上方|贅六《ぜいろく》のそのきっぷが気に入らねえんです。また、江戸屋の親方にしたっても、生まれおちるからの江戸っ子なら、芸ごとのうえで人気負けしたのを根に持って、人の寝込みに水をぶっかけてまわるなんて、そんなけちなまねゃしねえと思うんだ。べつに、なにもあっしゃ江戸屋の親類でも回し者でもねえんですが、あかの他人だっても同じ江戸っ子なら、贅六ふぜいにおひざもとっ子が、ほんとうにやったかどうかわかりもしねえことをかれこれいわれて、いいようにひねられていると聞いちゃ黙っていられねえんです。こうしてわざわざおねげえに来たのも、つまりはそれでござんす。だんなも江戸っ子なら、きっとお腹がたつだろうと思いましてね。たてば、ほかならぬ右門のだんなの一の子分の伝六親方のことだから、ぱんぱんと啖呵《たんか》をおきりなすって、朝めしまえにだれがまことの下手人だか、幽霊水の正体つきとめてくださるだろうと思って、暑いさなかもいとわず、わざわざこうしておねげえに来たんでござんす。ねえ、だんな! 同じおひざもとっ子一統の顔にかかわるんだ。ひとはだぬいでおくんなせえまし! ねえ、伝六だんな! いけませんか、ねえ、伝六親分!」
「…………」
ぐいぐいと油をそそぎかけられて、一の子分の伝六親分、すっかりいい心持ちそうに黙り込みながら、必死と首をひねりにひねりだしました。まことに無理がない。伝えたところが事実とするなら、だいいち正体のわからぬその幽霊水からしてが、はなはだぶきみ至極なのです。しかも、ぶきみなうえに、事はふたりの役者のうえにからまっているのです。はたして、江戸屋江戸五郎がやったかどうか?――三左衛門が世間に吹聴しているごとく、人気をさらわれた腹いせに、事実江戸屋がかかる水いたずらをやったものなら、事はさしたる問題でないが、実証もつかまず、その現場も押えずに、単なる疑いのみから、不用意にこれを下手人のごとく吹聴しているとするならば、江戸っ子中の江戸っ子をもって任ずる伝六親方が、とうていこれを許せるはずはないのです。ましてや、一の子分の伝六親方のこと、大いに油をそそぎかけたばかりか、だんながご出馬しないことにはといわぬばかりに持ちかけたので、わが愛すべき親方は、ことごとくいいこころ持ちになりながら、おつに気どってすっかり考え込みました。
「まて、まて、せくでない、せくでない、せいては事をしそんじる。とかく、こういうときは、あれだ、あれだ、右門のだんなをまねるわけじゃねえが、あごをなでると奇妙に知恵がわくものなんだ。大船に乗った気でいろ。いまにぱんぱんと眼《がん》をつけてやるからな――」
名人のいないのをいいことに、しきりと大きく構えながらあごをなでなで首をひねっているさいちゅう。
「ウフフ……」
不意にそこのそでがきの向こうから聞こえてきたのは、いかにもおかしくてたまらないといったような笑い声でした。
2
「なんでえ。何がおかしいんだ。顔も見せずに、いきなり笑うとは何がなんでえ。出ろ出ろ。どこのどいつだ」
いいこころ持ちに納まっていたやさきでしたから、不意を打たれてぎょッとしながらききとがめようとしたのを、
「そう気どるなよ、親方。どうだな、だいぶごぎげんの体だが、ぱんぱんと眼《がん》がついたかな」
笑いわらいのっそりとそでがきの陰から姿を現わしたのは、だれでもない捕物《とりもの》名人のわがむっつり右門です。しかも、その姿のさわやかさ! ――昼湯にでもいってひと汗流してきたばかりらしく、青ざおとした月代《さかやき》に、ふた筋三筋散りかかるほつれ毛を風になぶらせながら、夏なおりりしくすがすがしい姿をにこやかにぬっと現わしたので、すっかりめんくらったのは伝六親方でした。
「ちえッ、人のわるい。なんですかよ。だんなならだんなとおっしゃりゃいいんだ。隠れておって意地わるくウフフとやるこたアねえでしょ。あっしが気どろうと納まろうと、大きなお世話です。はばかりながら――」
「人並みにおれにだってもあごがあるというのかい。あるにはあっても、どうやら、一山百文のあごのようだが、どうだな、安物でも、なでりゃ眼がつくかね」
「ちぇッ、顔を見せたとなるともうそれだ。口のわるいってたらありゃしねえや。じゃ、なんですかい、何もかもその陰で立ち聞きしたんですかい」
「さよう。あんまりおめえがいい心持ちそうに気どっていたのでな、なにごとかと思って、幽霊水の話も、江戸屋の江戸五郎とかの話もみんな聞いたのよ、気に入らないかね」
「またそれだ。なにもいちいちとそんなに陰にこもった言い方でひねらなくたっていいでしょ。いくら主従の間がらにしたって、人の話を立ち聞きするっていう法はねえんです。これが男どうしの公話だったからいいようなものの、もしもかわいい女の子とふたりで、いっしょに逃げましょう、ああ逃げようぜと道行き話でもしていたのだったら、どうするんですかい」
「ウフフフ、ぬかしたな。べつにどうもしねえのよ。おめえみたいな男とでも道行きする珍だねがあるのかなと思って、びっくりするだけのことさ。ときに、どうだね、たいそうもなく江戸っ子がっていたようだが、肝心の幽霊水とかの眼はもうおつきかい」
「はばかりさま、自慢じゃねえが、まだちっともつかねえんですよ。だから、今そのあごをね――」
「なんでえ、つがもねえ、知恵の出ねえようなあごなら、なにも気どるこたアねえじゃねえか。さいわいここにかんながあるようだから、削っちまいなよ。ほんとうにしようがねえな。どきな、どきな。どうやら、夏向きで涼しい幽霊のようだから、ちょっくら生きのいいお手本を見せてやろう。――いいかい、眼をつけるっていうなアこうするんだ。よく見ておきな」
いいつつ、霊験あらたかなあのあごをそろりそろりとなでながら、小さいからだをいよいよちぢめて立ちすくんでいる若者のほうを上から下までじろじろと見ながめていましたが、まことに恐ろしいともあざやかともいいようのない右門流でした。
「きさま、うそをついてるなッ」
「そ、そ、そんな、うそなんかつくような男じゃねえんです。何もかも実のことを申し上げたばかりなんでござんす」
「控えろ、伝六親方の安でき目玉なら知らねえが、このおれの目の玉はちっとばかり品が違うんだぜ。かれこれいうなら、その証拠あげてやらあ。そりゃなんだ。その右にはいている雪駄《せった》の鼻緒の三味線糸《しゃみせんいと》はなんのまじないだ」
ずばりといいながら指さしたのは、古い三味線糸で、切れたのをお手製にまにあわせておいたらしい雪駄のその鼻緒です。同時に、小さな男があっというようにうろたえながら、あわてて隠そうとしたがもうおそい。
「だめだよ、だめだよ。おれの目がにらんだんだ。江戸っ子なら江戸っ子のようにしたほうがよかろうぜ」
にんめり微笑すると、静かに名人がずぼしをさしました。
「なかなか凝ってらあね。三味線の古糸で雪駄の鼻緒をすげるなんて、色修業でもした粋人でなくちゃできねえ隠し芸だよ。さっき、そこのそでがきの陰で聞いていたら、おめえは江戸屋江戸五郎の回し者でもねえ、親類でもねえとりっぱな口をきいたようだが、その三味線糸のあんべえじゃ、おそらく江戸五郎一座の浄瑠璃《じょうるり》語《かた》りか、下座でも勤めている芸人だろう。でなきゃ、おめえの色女かなんかが、一座のはやし方をでも勤めているはずだが、どうだ、違うか。正直なことをいわなきゃ、幽霊水の詮議《せんぎ》もこっちの気の入れ方が違うというもんだぜ」
「恐れ入りました。お目の鋭いのにはおっかねえくらいです。べつに隠すつもりではなかったんですが、ついその――いいえ、ほかのことは、幽霊水の話も、嵐三左衛門が江戸五郎親方のことを下手人のようにいっていろいろ吹聴していることも、みんなほんとうですが、縁もゆかりもねえといったのはうそでござんす。いかにも、お隠しだてしておりました。じつは――」
「一座の者か」
「いいえ、わっちゃ座方の者でも親類でもねえんですが、妹めが、その、なんでござんす、ずっとまえから江戸五郎親方に、その――」
「かわいがられているとでもいうのかい」
「へえい。まあ、ひと口にいや囲われ者になっているんでござんす。だから――」
「なるほど、ちっと眼が狂ったようだが、じゃなにかい、鼻緒のその正体は、妹がなにか三味線いじりをしているんだな」
「へえい、ほんの少しばかり、糸の音の好きなおかたなら、墨田舎二三春《すみだやふみはる》っていや、あああれかとごひいきにしてくださるけちなやつでござんす。だから、人気|稼業《かぎょう》の名にかかわっちゃと、妹の素姓の出ねえようにお隠しだてしていたんでござんす」
「ほほう、なるほどな。そうか、二三春がそちの妹か。たしか、二三春といや、のど自慢顔自慢の東節《あずまぶし》語りと聞いているが、それにしちゃ兄貴のおめえさんは、ちっとこくが足りねえな。じゃ、その妹に頼まれて、ほれただんなの江戸屋江戸五郎がほんとうの下手人かどうか、幽霊水の正体を突き止めてもらうようにと、駆け込み訴訟に来たんだな」
「いいえ、そうじゃねえんです。あっしが自身に思いたって、お詮議《せんぎ》をおねげえに来たんでござんす。と申すと物好きのようにお思いでござんしょうが、めかけ奉公のような囲われ者でも、妹にとっちゃほれてほれぬいた江戸屋でござんす。それゆえ、だんなの江戸五郎が人気負けしたうえに、ほんとうの下手人かどうかわかりもしねえものを三左衛門からかれこれいわれて、みじめなめに突き落とされているのを見ちゃ、いかな妹も立つ瀬がねえとみえましてな、毎日|日《ひ》にち、泣きの涙で暮らしているんで、そこは血を分けたきょうだい、からだは細っかくとも、たったひとりの妹が悲しんでいるのを見ちゃ、あっしだってもじっとしていられませんので、こっそりとこうして伝六親方の
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