右門捕物帖
幽霊水
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)二日《ふつか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)善光寺|辰《たつ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)「…………※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
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1
その二十三番てがらです。
時は真夏。それもお盆のまえです。なにしろ暑い。旧暦だからちょうど土用さなかです。だから、なおさら暑い。
「べらぼうめ、心がけが違うんだ、心がけがな。おいらは日ごろ善根を施してあるんで、ちゃあんとこういうとき、暑くねえようにお天道さまが特別にかばってくださるんだ。というものの――」
いばってみたが、伝六とて暑いのに変わりはないのです。しかし、もうお盆はあと二日《ふつか》ののちに迫っていたので、おりからちょうど非番だったのをさいわい、のこぎり、かんな、のみ、かなづちなぞ大工の七つ道具を、ちんちんと昼日の照りつける庭先に持ち出しながら、しきりと今日さまにおせじを使って仕事にかかりました。というと、いつのまにか伝六が棟梁《とうりょう》にでも商売替えをしたように思えるが、不思議なことに三年一日のごとく依然として岡《おか》っ引《ぴ》きなのですから、世の中にこのくらい出世のおそい男もまれです。だが、出世はおそくとも、なくて七徳、あって四十八徳、何のとりえもないように思えるこの伝六に、たった一つほめていいとりえがあるのですから、世の中はさらに不思議でした。おしゃべりに似合わず、いたって人情もろいというのがすなわちそれです。この暑いさなかに、ものものしい七つ道具を持ち出して、カンカンゴシゴシと、必死に大工のまねを始めたというのも、実をいうと名誉の最期をとげたあのかわいくて小さかった善光寺|辰《たつ》の新盆《にいぼん》が迫ってきたので、お手製の精霊《しょうりょう》だなをこしらえようというのでした。
「おこるなよ。なにもおめえが小さかったんで、からかうつもりでこんなちっちぇえ精霊だなをこしらえるんじゃねえんだが、しろうと大工の悲しさに、道具がいうことをきかねえんだ。気は心といってな、それもこれもみな兄貴のこのおれが、いまだにおめえのことを忘れかねるからのことなんだ。――だが、それにしても、この精霊だなはちっと小さすぎるかな」
骨組みだけできたのを見ると、なるほど少しちいさい。どうひいきめに見ても、たなの大きさは四寸四角ぐらいしかないのです。
「かまわねえや。どうせおめえとおれとは水入らずの仲なんだからな。さだめし窮屈だろうが、がまんしねえよ。お盆がすぎりゃまた極楽さけえって、はすのうてなでぜいたくができるんだからな。――ほうれみろ、こう見えてもなかなか器用じゃねえか。この麻幹馬《おがらうま》だっても、でき合いじゃ売ってねえんだぞ。特別おめえはちっちぇえから、馬も乗りここちがいいように、かげんしてちっちゃくこしれえてやるんだ。持つべきものは兄貴なり、あした来がけに地獄のそばも通ることだろうから、おえんま様にちょっくらことづてしてきなよ。しゃばには伝六っていういい兄貴があるから、お客にいってめえりますとな。いい兄貴というところを、特別にでけえ声でいってきなよ――」
「もしえ……」
「…………※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「あの、もしえ。だんな」
「ゲエッ。ちくしょうッ。おどすじゃねえか! わ、わりゃ、だれだ! だれだ!」
精霊だなをこしらえながら、いいこころもちになってあの世の辰《たつ》と話をしているさいちゅう、どこから忍び込んで、いつのまに庭先までもはいってきたのか、不意にしょんぼりと目の前に立ちふさがりながら、いきなり「もしえ」と、あの世の人のような力のない声で呼びかけたので、愛すべきわが伝六はおもわずぎょッとなりながら、鳥はだたちました。いや、不意だったのにおどろいたばかりではない。影ばかりの人のようにしょんぼりとしていたその姿に、おどろいたばかりでもない。力のないその声にぎょッとなったばかりでもない。いかにも、その男が小さいのです。さながら善光寺辰の再来ではないかと思えるほどに小さいのです。――伝六は、背に水をでも浴びせかけられたようにぞっとなりながら、ふるえ声できめつけました。
「ま、まさかにおめえは、辰じゃあるめえな。た、辰ならまだ出てくるにゃちっとはええぞ。――ど、どこのどいつだ。な、なに用があって来たんだ」
「…………」
「返事をしろ。な、なにを気味わるく黙ってるんだ。むしのすかねえ野郎だな。返事をしろ。な、なんとかものをいってみろ」
「…………」
「耳ゃねえのか。気、気味のわりい野郎だな。なんだって人の顔をやけにまじまじと見つめていやがるんだ。今、もしえといったじゃねえか。声の穴が通ってるんだろ、返事をしろ。どこから来たんだ。な、なんの用があって来やがったんだ」
たたみかけていったのを、不思議な男は一言も答えずにじいっと伝六の顔を長いこと見守っていましたが、とつぜん奇妙なことをずばりといいました。
「だんなは、江戸っ子でござんしょうね」
「なんだと!」
「だんなは江戸っ子かどうかとおききしているんでござんす」
「べらぼうめ。気をつけろ。余人は知らず、江戸っ子の中の江戸っ子のこの伝六様をつかまえて、だんなは江戸っ子でござんしょうかねとはなにごとだ。いま八百八町にかくれのねえ右門のだんなの一の子分といや、ああ、あの江戸っ子かと、名まえをいわなくともわかっているくれえのものなんだ。おれが江戸っ子でなかったら、ど、どう、どうしよってんだい。ええ、おい。ちっちぇえの!」
「あいすみませぬ。ただいま、ぽんぽんと景気よくおっしゃった啖呵《たんか》だけでも江戸っ子に相違ござりますまい。なら一つ――」
「なら一つがどうしたってえいうんだい。江戸っ子なら、べっぴんでも世話するっていうのかい」
「冗、冗談じゃござんせぬ。そんな浮いた話で来たんじゃねえんです。右門のだんなの一の子分の伝六様は江戸っ子だってことをあっしも聞いちゃいたんですが、ほんとうにだんなが江戸っ子だったら、あっしの話を聞いただけでもきっとむかっ腹をおたてになるんだろうと思って、じつあこうしておねげえに参ったんでござんす」
「こいつあおもしれえ。おめえ、がらはこまっけえが、なかなか気のきいたことをぬかすやつだな。なんだか知らねえが、その言いぐさが気に入った。頼みとありゃ、いかにもむかっ腹をたててやろうじゃねえか。事としだいによっちゃ、今からたててもかまわねえぜ」
「いえ、けっこうでござんす。けっこうでござんす。話を申し上げねえうちにぽんぽんとやられちゃ、ちぢみ上がっちまいますから、どうかしまいまでお聞きくだせえまし。じつあ、余のことじゃねえんですが、だんなはいま奥山に若衆|歌舞伎《かぶき》の小屋を掛けている大坂下りの嵐三左衛門《あらしさんざえもん》っていう役者のうわさをご存じですかい」
「べらぼうめ、知らねえでどうするかい。それがどうしたというんだい」
「じゃ、詳しく申し上げる必要もござんすまいが、あいかわらずあの気味のわるい水騒動が、今も毎晩毎晩絶えねえんです。だから――」
「ちょっと待ちねえ、待ちねえ。嵐三左衛門とか八左衛門というやつあ、いってえ何をしょうべえにしている野郎なんでえ」
「へ……?」
「今おめえがいったその奥山の若衆歌舞伎とかに出ている上方役者とかいう野郎は、何をしょうべえにしているんだい」
「役者だから、役者を商売にしているんでござんす」
「決まってらあ。役者はわかっているが、何をしょうべえにしているかといってきいているんだよ」
「こいつあおどろきましたな。じゃ、だんなはあの気味のわるい騒動のうわさも何もご存じないんですね」
「あたりめえだよ。かりにもご番所勤めをしている者が、知らねえといったんじゃ、お上の威光のしめしがつかねえから、大きに知っているような顔をしたまでなんだ。けれども、君子女人を語らず、町方役人どじょうを食せずと申してな、どじょうにかぎらず、町方役人となれば、そのほうたち下々の者へのしめしのためにも、知っておいてわるいことと、知らないほうがかえって役目の誉れになることがあるんだ。だから、おれが奥山くんだりの河原乞食《かわらこじき》のうわさを知らなくたって、何も恥にゃならねえんだろう。違うか。どうじゃ」
「恐れ入ました。いちいちごもっともさまでごぜえます。いえ、なに、ご存じないとなりゃ、なにもあっしだって口おしみするわけじゃねえんだから詳しく申しますがね、じつあ、こうなんですよ。ただいま申しました上方役者の嵐三左衛門っていうのがね、若衆歌舞伎の一座を引きつれて、はるばるとこの江戸へ下り、十日ほどまえから奥山に小屋掛けして、お盆を当て込んでのきわもの興行を始めたんでござんす。ところが、だんな、世の中にゃ、まったく気味のわるいことがあるもんじゃござんせんか。その嵐三左衛門が寝泊まりしている宿屋でね、毎晩水の幽霊が出るんですよ。水の幽霊がね」
「おどすねえ。お盆が近いからといって、人をからかっちゃいけねえよ。なんでえ、なんでえ、その水の幽霊ってえのは、いってえどんなしろものなんでえ。やっぱり、ヒュウドロドロと鳴り物がはいって、目も口も足もねえのっぺらぼうの水坊主でもが出てくるのかい」
「そうじゃねえんです。そんななまやさしい幽霊水じゃねえんですよ。朝起きてみるてえと、その三左衛門の泊まっているへやじゅうが、あっちにぽたり、こっちにぽたりと――、いいえ、ぽたりどころの騒ぎじゃねえんです。からかみから、びょうぶから、着て寝ている夜具ふとんまでがぐっしょりと水びたしになっているというんですよ。それがひと晩やふた晩じゃねえんで、毎晩知らぬまに、出どころたれどころのわからねえ幽霊水にぐっしょりとぬれているんでね。とうとう気味がわるくなって、四日めに宿屋を替えたんですよ。するてえと、だんな――」
「また出たか」
「出た段じゃねえんです。泊まり替えたその宿屋でもまた、朝になってみるてえと、衣桁《いこう》にかけておいた着物までが、ぐっしょりと水びたしになってね、おまけにまだぽたぽたとしずくがたれていたっていうんですよ。だから、すっかりおじけをふるって、その日のうちにすぐまた三度めの宿を替えたら、ところがやっぱり幽霊水があとをつけてくるというんです。しかも、おまえさん、いいえ、伝六だんな、それからっていうものは、いくら宿を取り替えても、必ず朝になるてえとぐっしょり何もかもぬれているんでね。だから、とうとう――」
「よし、わかった。べらぼうめ。ほかならぬこの伝六様がお住まいあそばす江戸のまんなかに、そんなバカなことがあってたまるけえ。おおかた、河童《かっぱ》の野郎か雷さまの落とし子でもが、そんないたずらするにちげえねえんだ。さあ来い。野郎ッ。どうするか覚えてろッ」
「いえ、もし、ちょっとちょっと、血相変えてどこへいらっしゃるんです。まだあるんですよ。まだこれから肝心な話がのこっているんです」
「なんでえ、べらぼうめ。じゃ、おめえはおれに、その幽霊水の正体を見届けてくれろと頼みに来たんじゃねえのかい」
「来たんです。来たんだからこそ、このあとを聞いておくんなさいましというんです。だからね、嵐の三左衛門もとうとう考えちまったというんですよ。こいつあただごとじゃねえ、どいつかきっと意趣遺恨があって、そんなまねするんだろうとね、いろいろ考えて、あれかこれかと疑わしい者に見当つけていったところ、同じその奥山で小屋を並べながら、やっぱり若衆歌舞伎のふたをあけている、江戸屋江戸五郎っていう役者があるんですよ。名まえのとおり三代まえからのちゃきちゃきの江戸っ子なんですが、疑ってみるてえと、どうもこれが怪しいとこういうんです。というのは、どうしたことか、この江戸屋江戸五郎のほうが最初から人気負けしておりましてね、芸だってもそうたいして違っちゃいねえ
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