右門捕物帖
因縁の女夫雛
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仙台《せんだい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大事|出来《しゅったい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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――その第二十二番てがらです。
場所は少しく飛んで、いわゆる江戸八宿のうちの一つの新宿。竹にすずめは仙台《せんだい》侯、内藤様は下がり藤《ふじ》、と俗謡にまでうたわれたその内藤駿河守《ないとうするがのかみ》の広大もないお下屋敷が、街道《かいどう》ばたに五町ひとつづきの築地《ついじ》べいをつらねていたところから、当時は内藤新宿といわれたものですが、品川の大木戸、ここの大木戸、共に読んで字のごとくその大木戸が江戸との境で、事実は町つづき軒つづき、新宿のねこきょうも江戸に通いけり、という戯《ざ》れ句《く》があるくらいですから、江戸八百八町に加えてもさしつかえはなかろうと思われるのに、大木戸を一歩外へ出るともう管轄違いです。だから、罪人のうちにも少し知恵の働くやつがあって、闕所《けっしょ》所払い、いわゆる江戸追放の刑を受けた場合、十里四方三里四方というようななわ張り書きがあったときは格別、単に江戸追放とだけで里数に制限がないとなると、よくこの新宿や品川の大木戸外にひっこし、大いに江戸を離れたような顔をして、係り役人をからかったものだそうですが、それゆえにこそ追放区域の分かれめという意味から、今も新宿に追分という地名が残っているのだそうで、いずれにしても管轄違いならば、当然宿役人の手によって諸事万端処理さるべきはずなのに、ぜひにも名人でなくばという名ざし状が、なまめかしい朱房《しゅぶさ》の文筥《ふばこ》とともに、江戸桃源の春風に乗って舞い込みました。しかもそれが、またよりによって三月の三日、すなわちおひな祭りの当日なのです。いうまでもなく太陰暦ですから、桃の節句の桃も咲いているであろうし、桜はもとより満開……
しかし、事ご番所の公務となると、犯罪は地震と同様、いつなんどき、どこから揺れてくるかわからないので、夢まどろにいつものごとく控え室に陣取りながら、うつらうつらとあごの下に手の運動をつづけていると、今いったそのなまめかしい朱ぶさの文筥が、とつぜん内藤駿河守のお下屋敷から届きました。あまつさえ、中に書いてある文言が、たいそうもなくよろしくないのです。
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「取り急ぎひと筆しめしまいらせそろ。いまだお目もじつかまつらずそうらえども、ご高名はつとに拝承、ぜひにもお力借りたき大事|出来《しゅったい》そうろうまま、すぐさまご入来願わしく、他行お名ざしのことなぞ上辺の首尾については、当方より人をもってご奉行職に申しあげおくべくそうろうあいだ、右お含みおしのびにてご光来わずらわしたく、万事はお目もじのうえにて、あらあらかしこ」
[#ここで字下げ終わり]
書き出しのひと筆しめしまいらせそろというあたり、結句のおしのびにてうんぬんかしこといったあたり、春情春意おのずから整って、いかな君子人が読んだにしても、そのなまめかしさ、いろめかしさ、あきらかに差し出し人は女性であることを物語っていたので、聖人君子にはおよそ縁の遠いわが伝六が、伸び上がり伸び上がりうしろから盗んで読んで、ことごとく猪首《いくび》をちぢめながら、たちまち悦に入ったのは当然でした。
「たまらねえな。陽気がぽかついてくるてえと、ものごとがこういうふうにはずんでくるんだからね。どうです? まあ、この字の行儀のよさというものは――。見ただけでもほれぼれするじゃござんせんか。お将軍さまが召し上がる目刺しだっても、これほど行儀よく頭をそろえちゃおりませんぜ。べっぴんですよ! べっぴんですよ! この字の書きっぷりじゃ、きっと大べっぴんですぜ」
「うるさいよ」
「え……?」
「耳もとでガンガンとうるさくほえるなといってるんだ。おまえのようなあきめくらがのぞいたっても、犬が星をみるようなものなんだから、尾っぽを巻いておとなしくかしこまってな」
「ちぇッ。あきめくらとはなんですかい! なんですかい! いかに伝六が無学文盲だっても、このぐれえの色文なら勘だけでもわかるんだ。これが世間にほまれのたけえ水茎の跡うるわしき玉章《たまずさ》っていうやつなんだ。名は体を表わし、字は色を現わすといってね、さぞおくやしいでござんしょうが、この主はべっぴんですよ」
でないにしても、なよやかにほっそりとした美しい文字のぐあいでは、少なくも若い女性であろうと想像されたのに、しかし名人の目のつけどころ、眼《がん》の働きどころは別とみえて、問題の手紙を裏に返したり表に返したり、と見つこう見つ、しきりと丹念に見しらべていましたが、何を理由に看破したものか、にやりと微笑すると、ことごとく伝六を驚かしていいました。
「せっかくお楽しみのようだが、このご用主はおばあさんだぜ」
「何を途方もねえことおっしゃるんですかい! だから、女ぎれえは自慢にならねえというんですよ。はばかりながら、色模様にかけちゃ、あっしのほうがちょっとばかりご無礼しているんだからね。あらあらかしこなぞと若々しい止め文句を使う年寄りのばんばあが、どこの世界にあるんですかい。論より証拠、行ってみりゃわかるんだ。いらっしゃい! いらっしゃい! すぐさまご入来願わしくとあるんだから、早いところおいでなさいましよ」
素足に雪駄《せった》、巻き羽織のしのび姿で、いななき勇む伝六を従えながら、それなるご用主の内藤家へ行きついてみると、しかるにこれがなんともふつごうなことに、名人の看破したとおりなのです。
「あッ、ようこそ。ご隠居さまがさきほどから、まだかまだかと、たいへんにお待ちかねでございますゆえ、お早くどうぞ――」
門のところから若党ふうの小者があわただしげに顔を出して、あきらかにご隠居さまといいながら、その間も待ち遠しいように、屋敷のうちの木立ちがくれになったお組屋敷の一軒へいざなっていったものでしたから、女のことにかけては大きに目の肥えているはずの伝六が、すっかりかぶとをぬいでしまいました。
「へへえね。ちっとばかりあきれたな。当節のご隠居さまは、血の道がおかれあそばしましても、ひと筆しめしまいらせそろなんて、いろっぽいお手紙をお書きなさるのかね――」
腑《ふ》におちかねるようにひねりはじめた首の前へ、名人がこれを見ろといわぬばかりで、にやりとやりながら黙ってさし出したのは、先刻のあの書面です。
「なんです? どこかにご隠居さまが書いたっていう判じ絵でもあるんですかい」
「あいかわらず手数のかかるやつだな。このご書面の紙をみろな。もみくちゃになったやつを、火のしかなんかで伸ばしたようなこじわが、たくさんついているじゃねえかよ。いろけ盛りの若い女だったら、こんなつましいまねはしねえもんだよ。お年寄りだからこそ、捨てるももったいないと、丹念にしわをのばして、巻き紙に使ったんだ。目を変えろ、目玉をな。ねずみおどしにぴかぴか二つ光らしているんじゃねえんだから、今度ついでがあったら、神田の鍛冶《かじ》町へでもいって、もっとドスのきく目玉に打ち直してもらってきなよ」
着眼するところ、つねにかくのごとく細密鋭利、しかも相手がまたことばのとおり、懐紙一枚たりともむだにはしまいと思われるような七十あまりの、一見するに内藤家老職のご後室さまといったようなみだしなみも好もしい切り下げ髪のお上品なご隠居さまでしたから、その慧眼《けいがん》の鋭さには、何度舌を巻いても巻ききれないくらいです。いや、事実相手のご老体は、駿河守《するがのかみ》家老職のご後室さまなのでした。
「お忙しいところを、ようこそいらせられました。当屋敷の側《そば》用人を勤めおります渡辺助右衛門《わたなべすけえもん》の母めにおじゃります。さっそくじゃが、不審はあれなる品でおじゃりますゆえ、とくとお調べくださりませ」
ことばゆかしく請《しょう》じながら、いっときも待ちきれないというように、そこの床の間に飾ってある桃の節句の祝い雛《びな》を指さしたので、静かに見ながめると、なにさまちと不審なのです。あるべきはずの内裏雛がそろっていない! 矢大臣も、官女も、庭侍も五|人囃子《にんばやし》もほかの雛人形に異状はないが、肝心かなめの内裏雛が片一方の親王家ご一人だけで、お相方のみ台さまが欠けているのです。
「盗難にお会いなすったのでござりまするか」
「いいえ、それだけのことなら、わざわざお呼びたてすることはござりませぬが、ちとこみ入っておじゃりますのでな、これなる雛のいわれから先にお話しいたしましょう――」
うれわしげに老眼をしばたたきながらこまごまと語りだしたところによると、いかさま少々どころか、大いにいわれ因縁のある雛でした。――ご後室に春菜という孫娘があって、これがちょうど十八歳、内藤小町とうわさが高いほどな美人だそうなが、七つの年に同家中の重役古島|五郎左衛門《ごろうざえもん》の長子六郎次といいなずけの縁を結び、その約束の印にと、右古島家に歴代伝わる内裏雛を二つにわかち、娘の里のほうへはのちの夫婦《めおと》の契りを現わし、約束誓言を堅く守らせる意味から男雛《おびな》の親王さまを分け与え、古島家そのもののほうにはこれまた行く末先の女夫《めおと》を誓い、うれしい契りの日のよきお輿入《こしい》れを一日も早かれと待ち願う意味から、女雛《めびな》のみ台さまを残しておいて、娘の春菜は男雛を、せがれの六郎次はまた女雛を、それぞれいとしい思い人思い雛に愛し祭りながら、この年までの十二|歳《とせ》十二春、なんのまちがいもなく飾りつづけてきたところ、そうするのが毎年の吉例になっていたので、けさほど古島家から親子を招き、娘ともども白酒祝いをやったのち、何心なく男雛を手にとってよくよく調べてみると、いつのまににせものとすり替えられたか、たいせつなその思い雛恋の預かり雛が、現在ここに飾ってあるような偽物偽作とすり替えられていたというのです。
「それゆえ――」
ご後室は悲しげに目をうるませると、悲しげに声をおとしながら訴えるのでした。
「こちらでは夢にも知らないことでおじゃりますのに、古島様親子はこのように申されて、ことのほかご立腹あそばされたのでおじゃります。知ってしたことならなおのこと、たとえ盗難にかかってのことであろうと、女夫《めおと》の約束代わりに預けたたいせつな片雛が、こんなまがいものとすり替えられているは、とりもなおさず生きた夫をすり替えたも同然じゃ。盗難悪意いずれであろうと了見ならぬゆえ、あらためてしかとの返答さっしゃいと、たいへんなお腹だちでな、うちの春菜にかぎっては、人さまもおほめくださるほど身堅い娘でござりますのに、やれ隠し男ができたであろうの、目を盗んだみだらな色狂いしているためにこのような細工したであろうのと、口ぎたないはずかしめまでもおっしゃって帰りましたゆえ、すぐにもほんものの預かり雛を捜し出し、娘のぬれぎぬが晴れるよう、どなたかに力となってもらいましょうと存じましたなれど、あいにくなときというものはしかたがおじゃりませぬ。親兄弟親類までが娘の身内は、みんな去年の秋から、殿とごいっしょに帰藩中でおじゃりますゆえ、ふと思い出したのが、そなたさまのおうわさでおじゃりました。密事は密事、情けは情けと、秘密を割ってお願いすれば、どれだけでもご内密にお計らいくださるとのご評判でおじゃりますゆえ、なまなか家中の者に力を借りてよからぬうわさを言いたてられるよりも、いっそ、あなたさまにとこうしてお力におすがり申すしだいでおじゃります。それもこれも、事の起こりはみんなあれなる男雛《おびな》のにせものがもとでおじゃりますゆえ、ようく手にとって、お調べくださりませ」
いいつつ目をしばたたきながら、孫思うご後室は、身も世もないというように、老いのしずくを払い落としました。無理はない。小町娘の
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