どかしいように差し出したのは、次のごとき一通の密書でした。
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「――いかなることあるとも他言いたすべからず。大事|出来《しゅったい》、一刻を急ぎ候《そうろう》あいだ、馬にて参るべし。 豆州」
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かつてないお差し紙です。一刻を急ぎ候あいだ馬にて参るべしとは、将軍家のお身のうえにでも変事があったか、それとも伊豆守ご自身にかかわる大事か、いずれにしても容易ならざる急達でしたので、物に動じない名人のことばもおのずから震えました。
「どちらに! 殿は、どちらでござります?」
「お下屋敷じゃ!」
「馬は?」
「これじゃ! てまえのこの鹿毛《かげ》にて参れとのご諚《じょう》じゃ!」
「心得ました!」
代わってひらりとうちまたがると、
「伝六。つづけよッ」
降りまさる雪の夕暮れ道を八条流の手綱さばきもあざやかに、不忍池《しのばずのいけ》の裏なる豆州家お下屋敷目ざして一散走りでした。
はせつけたのは、ちょうど暮れ六ツ。パッと馬を捨てて地上に降り立ったとき――、
「おう! 参ったか!」
ご門わきの茂みの中から、雪ずきんもされずに、降りしきる粉雪を全身に浴びたままで、待ちきれなかったもののようにつとお姿を見せたのは、だれでもない伊豆守ご自身でした。その一事だけでもがよくよく事件の重大事であるのを物語っているうえに、密事の漏れるのをはばかってか、側近の者をすらも従えず、ただご一人でお待ちうけしたので、名人の声はいよいよ震えました。
「よほどの大事と拝せられまするが、なにごとにござります?」
「一見いたさばあいわかる。こちらに参れ」
みずから先にたって、ちょうどそのとき、息せき切りながらはせつけた伝六ともども、名人主従を導いていかれたところは、いぶかしいことに屋敷のすみの一郭のお長屋でした。しかも、そのいちばんはずれの小さな一軒の前へ行くと、
「采女《うねめ》、だれもいまいな」
「はっ。じゅうぶんに見張っておりましたゆえ、だいじょうぶにござります」
鷹野《たかの》に召し連れていった小姓の采女に念を押していられましたが、先にたってそこのくぐり門から庭先へはいっていくと、足もとを指さしながらおごそかにいわれました。
「なぞはこの二つの菰《こも》の下じゃ。とってみい!」
取りのけて雪あかりをたよりながら見ながめるや同時に、名人も伝六も、伊豆守の面前であるのを忘れたほどに、声をそろえておもわずあッと叫びました。また、なぜにこれが驚愕《きょうがく》しないでいられましょう! その菰の一つの下にはあの辰が、帰りのおそかったあの善光寺辰が、肩から背にかけて一面あけに染まりながら、見るもむざんなむくろとなっていたからです。いや、死骸《しがい》は辰のがひとつではない! 向き合った隣の菰の下には、いま一つ同じように肩先を袈裟《けさ》がけにやられたむくろがありました。しかも、その手は、しっかりと太刀《たち》を握りしめているのです。それをもってわれらが名人のなにものにも替えがたい配下を仕止めたらしく、必死と一刀を握りしめていたのです。辰もまたそれをもって相手を討ち止めたものか、その手には一刀が握られていたものでしたから、事のいかんはさておいて、伝六の口から、場所がらも人前もかまっていられない驚きと憤りとを一つにしたことばが、爆発するようにまず放たれました。
「これはいってえ、こ、これはいってえ、ど、どうしたんだッ。辰ッ。た、辰公! もうおめえは、も、もうおめえは息がねえのか! 息はねえのかッ……いってくれッ。な、なんとかいってくれッ。辰ッ……辰公……! 息はねえのかッ。もう息はねえのかッ……」
控えろ! お人前をわきまえろ――! 伊豆守のお面前であるのをはばかって、いつもならそういってたしなめるのが普通でしたが、今度ばかりは名人右門も、伝六に愁嘆させたままでした。また、そうあるべきが当然です。配下の辰が難に会っていたとは、わけても配下思いの名人に、同じ嘆きの募ったのも当然なのです。――それに勢いを得たもののごとく、泣き上戸、おこり上戸の伝六は、おいおいと、手放しにやりながらつづけました。
「息はねえ! もう息はねえ! なんてまあ情けねえことになったでしょうね! なんとかしておくんなさい……。はええところ、なんとかしておくんなせえまし……ね! だんな! ね! だんな! 後生です……後生です!」
その涙に誘われて、名人の秀麗な面にも、滝のようにしずくが流れ伝わりました。しかし、――泣いている場合ではない! いたずらに嘆き悲しんでいる場合ではないのです。急いで両ほおをぬぐうと、ことばを改めて伊豆守にきき尋ねました。
「かわいそうに、どうしてまた、このようなことになりましたのでござります」
「それがいっこうにわからぬゆえ、なにはともかくと、急いでそのほうを呼び招いたのじゃ。じつは、そちたちも知ってのとおり、この屋敷から小石川のほうへ弓を届けるよう命じたのに、これなる辰がいつまで待ってもお矢場に持参せぬゆえ、ようやくご用を済まし、不審に思いながら、ほんのいましがた帰ってまいったところ、このような仕儀になっていたのじゃ」
「お耳に達しましたのは、いつのことにござります」
「帰邸いたすとすぐさまじゃ」
「たれがお知らせ申し上げたのでござります」
「あの者じゃ――ほら、聞こえるであろう。あれが知らせた当人じゃ」
いわれたそのことばとともに、そのとき、ぴたりと障子をしめきった暗い家の中から、急に情が迫りでもしたかのごとく、よよと忍び音に泣き忍ぶ人の声が漏れました。
「女でござりまするな。何者にござりまする」
「こちらに倒れている古橋|専介《せんすけ》のひとり娘じゃ。あれなる者が最初にこのさまを見つけ出し、わしにも知らせた本人ゆえ、遠慮のう尋ねてみい」
最初に発見した者がその娘とするなら、いうまでもなくまず尋問してみるべきが事の第一です。名人はちゅうちょなく座敷へ押し上がりました。
それとともに、暗かったへやの中には、けはいを知った娘の手によって、あわただしく短檠《たんけい》がともされ、じいじいと陰に悲しく明滅するあかりのもとに、その姿のすべてがパッと浮かび上がりました。――年のころはまだ咲ききらぬつぼみの十五、六歳。少禄《しょうろく》の者らしいが、容姿ふぜいは目ざむるばかり。しかも、それが泣きぬれているだけに、ひとしおの可憐《かれん》をまして、そのういういしさ、あどけなさ、一指を触るればこぼれ散りはしないかと思われるほどの美しさでした。
むろんのことに、押し入った以上、すぐにも尋問が始められるだろうと思われたのに、しかし、いつものあの十八番です。見るような、見ないような目で、じろじろと小娘をながめていましたが、やがてずばり右門流でした。
「そなた、きょう寺参りに行きましたな!」
「えッ――」
というように、ぎょッとなったのを押えてずばり――。
「身にお線香がしみついているは、たしかにその証拠じゃ――。のう、このとおり、どのようなことでも見通すことのできるわしゆえ、隠してはなりませぬぞ。見れば、家人とてはそなたおひとりのようじゃが、墓参りに行ったはお母ごか」
「あい……そうでござります」
「きょうがご命日か」
「あい。月は違いますなれど、二十六日がみまかりました日でござりますゆえ、父にるすを頼みまして、朝ほど浅草の菩提寺《ぼだいじ》へ参り、五ツ少しすぎまして帰ってまいりますると――」
「お父上とあれなる辰がふたりして切り結んでいたと申されるか」
「いえ、違います。違います。父はおはぎが大の好物でござりましたゆえ、駒形《こまがた》まで回ってみやげに買ってまいりましたところ、いかほど呼んでも、ととさまのご返事がござりませなんだゆえ、捜すうちにこの庭先で、ふたりが雪の中にこのようにあけに染まって倒れていたのでござります」
「そのときはもうこと切れてでござったか。それとも、まだ息がござりましたか」
「こと切れてでござりましたが、まだふたりとも、からだにぬくもりがござりましたゆえ、いっしょうけんめい介抱いたしましたなれど、あの深手でどうなりましょう、そのうちにも冷たくなってしまいましたゆえ、さっそくどなたかにお知らせいたしましてと存じましたなれど、あいにくきょうは、お長屋のかたがたみなご非番で、どこぞに他出なされて、どなたもおいでがござりませなんだゆえ、どういたしましょうと考えまどうているうちに、なまじ騒ぎたてて、お家のお名にでもかかわるようなことになりましてはとようやく心を定め、目だたぬようにと、そのまま手もつけず菰をかむせ、悲しいのをこらえましてお待ちいたしましておりましたところへ、お殿さまご帰館のようにござりましたゆえ、こっそりとお目通りを願い、委細をお耳に達したのでござります」
陳述なかなかあっぱれ。騒ぎたててお家の名にかかわってはと、むくろに手もつけず、そのまま長い時刻の間秘密を守っていたとは、少女、容姿ふぜいのごとく、その心がけ見上げた賢女です。宰相伊豆守また賢女であるのを折り紙つけるようにいうのでした。
「いちいちみな聞いてのとおり、わしに述べたのもそのとおりじゃ。応急の処置もまた、小娘に似合わずあっぱれであったのでな、わしもことのほかかわいく思い、采女《うねめ》に言いつけ、このとおりじゅうぶんに見張りをさせて、密々そちのところへ急使を立てたのじゃ。むくろのぐあいから判ずれば、どうやらこれなる専介と辰九郎の両名が、なにごとか争いを生じ、この庭先で刃傷《にんじょう》に及び、かくのごとく双方ともに相討ちとなって落命いたしたようじゃが、それにしても不審は、両名が何をもとに争ったかじゃ。弓を取りに参った辰九郎に争うべき筋があるとも思われず、専介とても辰九郎にいどみかかるべき節があろうとも思われぬのに、かく相討ち遂げているとは気がかりゆえ、じゅうぶん心いたして、一世一代の知恵ふるってみい!」
いわれるまでもない! おのが配下の辰九郎が、――宰相伊豆守の推挙によって配下となったその辰が、推挙をしてくれた伊豆守のご家臣と、かようないぶかしき刃傷の相討ちを遂げているとは、まさに容易ならぬ事件です。ただ一つ恨むらくは、発見したという朝の五ツから、この宵《よい》六ツすぎまで、少しく時のたちすぎているのが心がかりでしたが、こと、それと決まらばなんのちゅうちょがあろう! つづいて急務は二つの死骸《しがい》の検証です――。名人は短檠《たんけい》を片手にすると、いまだにしんしんとおやみなく降りしきる粉雪を浴びつつ、やおらふたたび庭先に降り立ちました。
その顔の青さ!
その決意の強さ!
ぶきみにぼうっとあかりさす短檠を片手にかざして、降りしきる雪の庭にたたずみ立った名人右門の姿は、さっそうというよりむしろ凄艶《せいえん》でした。いや、凄艶であるべきが当然です。何がゆえに、わが配下の辰と、恩顧ある名宰相のお禄人《ろくびと》とかように争い、かように相討ち遂げたか、その原因たる事の起こりのいかんによっては、おのが身の進退にも及ぶべき重大事だったからです。
伝六とてもまたしかり! 百鳴り 千鳴り、万鳴りのあいきょう者も、おのが弟分にかかわりある事件とあっては、鳴る太鼓も日ごろのように朗らかな音が出ないものか、それきり音止めをやって、かたずをのみながらじっと見守りました。
名人は静かに歩みよると、まず見ながめたのは、ふたりの肩口の傷です。それから、両名が握りしめている太刀《たち》――。つづいて両人の位置。互いに顔を向き合わせるようにして、うち倒れているその位置です。以上の三点を林のごとき静けさを保って短檠のあかりをさしつけながら、巨細《こさい》に見調べていましたが、そのうちに、ピカリと、真にピカリと、名人の目がさえ渡るや同時に、
「よッ!――」
力のこもったよッという叫びが漏れました。
「なんぞあったか!」
「…………」
「なんぞ、調べのついたことがあるか!」
「はっ。ござります! たしかにござります!」
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