したとは、いいようもなくふらちな話ですが、雪になったとならば、残念ながらお鷹が飛ばないのです。鷹野にやって来て、第一の狩り道具たる鷹が飛ばないとならば、いうまでもない!
「帰館じゃ! 予はもう帰館いたすぞ。供ぞろいせい!」
「ちぇッ。なんでえ! なんでえ!」
お中止になったそのお沙汰《さた》を聞いて、響きの物に応ずるごとく、たちまち鳴りだしたのは余人ならぬ伝六でした。――もっとも、伝六なぞのいたところは、うしろもうしろもずっとうしろの、遠がすみにかすんで見えるあたりでしたから、中止のお沙汰が将軍家からまず伊豆守に伝わり、伊豆守から諸侯がたに伝わり、諸侯がたから近侍に伝わり、近侍からお徒供《かちとも》、町方衆へと、そのまた町方のいちばん末の伝六なぞのところまで伝わってくるには、そばかうどんであろうものなら、とっくにもう伸びてしまっている時分でしたが、しかし遠いところにいようと、近くにいようと、このもっぱらうるさいやつが、町方警固の衆の一人としてお供うちに加わっていた以上、たちまち自慢の鳴り音をあげたのは当然なことです。
「なんでえ! なんでえ! だからおいら、てんとうさまとさいころばかりは、わがまますぎて気に入らねえんだ。せっかく寒い中を夜中起きして、きょうばかりはおいらもお将軍さまになったつもりでいようと楽しみにしていたのに、なにも今が今になって義理も人情もわきまえねえまねしなくったっていいでしょう! ね! だんな! 違いますかい! 雪までなにも降らせなくたっていいでしょう! ね! だんな! 違いますかい! あっしのいうことは、理屈が通っちゃおりませんかい!」
「頭《ず》が高い! 控えろッ」
「え?」
「あのお姿がわからぬか! 頭が高いッ。控えろッ」
鳴りだそうとした出鼻を、やにわに頭が高いとしかりつけられたので、なにごとならんかとちぢこまりながら、おそるおそる伺うと、頭の高かったのも道理、こちらへ急ぎ足でお近づきになってきたのは、だれならぬ名宰相|伊豆守《いずのかみ》です。
「ちこう! ちこう!」
しかも、あわただしげに目顔で名人をお招きなさったものでしたから、すわ大事|出来《しゅったい》とばかり、いろめきたちながら聞き耳立てていると、だが、伊豆守のわざわざお運びになったのは、名人に用があったのではなく、善光寺|辰《たつ》へのご用なのでした。お鷹狩りが中止になった結果、急にもようが変わり、将軍家をはじめ扈従《こじゅう》の諸侯がたが、今から小石川のご用矢場に回って、御前競射をすることになったので、至急に愛用の弓を屋敷からその小石川のほうへ辰に持参せい、というご諚《じょう》なのでした。それだけのご用ならば、なにも善光寺辰をわざわざ使者に立てなくともよさそうに思われましたが、しかし、このとき伊豆守が侍臣としてお鷹野お供に召し連れていたのは、お気に入りの小姓|采女《うねめ》がただ一人でした。これは一代の名宰相松平知恵伊豆の行状中、最も特筆すべき慣例なので、他の諸侯がたがいずれも多いのは十人、少なくても六、七人は従者を伴っているのに、老中という顕職にある信綱《のぶつな》ばかり、特に一人であったというのは、こういうとき多くの家の子郎党を召し連れていったら、閣老|豆州《ずしゅう》の従者という意味で、将軍が特別の下されものなぞあそばして、そのため他の諸侯がたから、嫉視《しっし》反感をうけるようなことがあっては、という賢人の賢慮から、わざと身軽で扈従《こじゅう》するのがいつもその定例なのでした。――辰はいうまでもなくその名宰相伊豆守のご推挙で、名人の配下になった者。さればこそ、屋敷のもよう様子なども心得たこの愛くるしいお公卿《くげ》さまに、白羽の矢が立ったとてもなんの不思議はないが、聞いて、納まらなかったのは伝の字あにいです。
「ちぇッ」
特別に勇ましく鳴らすと、いうことがまた伝六流でした。
「うまくやっていやがらあ。犬になるなら大所の犬にとね。安くてまず小判、少し風もようがよろしくばご印籠《いんろう》ものだ。――ね、だんな、かりに辰めが今の使い賃にその印籠をいただいたと思ってごろうじろ。おくだされあそばす殿さまは今が飛ぶ鳥の豆州さまなんだからね。いずれは堆朱《ついしゅ》か、螺鈿《らでん》細工のご名品にちがいないが、それに珊瑚珠《さんごじゅ》の根付けかなんかご景物になっていたひにゃ、七つ屋へ入牢《にゅうろう》させても二十金どころはたしかですぜ。ね! だんな! だんなは辰めがうらやましくないんですかい!」
2
しかるに、うらやましいにも憎いにも、その辰がどうしたことか容易に八丁堀へ帰らないのです。お屋敷へいって、小石川へ回って、ご命令どおり弓をお届けしたにしても、じゅうぶんお昼までには組屋敷へ帰るだろうと思われたのが、八
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング