。――みなの者も人相書きのことを聞いたであろうな」
 宰相伊豆守は、かたわらに居流れていた近侍の面々を顧みると、猪突《ちょとつ》に命じました。
「わからば、采女《うねめ》! そちが采配《さいはい》振って、火急に七、八頭ほど、早馬の用意せい!」
 不思議な命令です。早馬を八頭近くも用意させて、いずこへ飛ばせようというのか! 浪人者と決まりますれば、御前の、あの――あとはご賢察願わしゅう存じます、といった御前のあの、というその「あの」なる「あの」はなんであるか?――よしわかった。いうな、いうな、あとをいってはならぬ、といったその「あと」なる「あと」は、いかなるなぞであるか?――。いつもながら、捕物名人と、名宰相とのやりとりは、まこと玄々妙々の腹芸ですが[#「ですが」は底本では「ですか」]、しかし、ありようしだいを打ち割ってみれば、不思議でもない、不審でもない、名人のいったその、御前のあのなる「あの」は、伊豆守の浪人取り締まり政策を利用しようというのでした。ご存じのごとく、松平信綱という人は、ほとんどその半生を浪人の弾圧取り締まりに費やした秘密政治家の大巨頭です。なかんずく、この事件の前後における時代は、浪人のほうも極度に跋扈《ばっこ》し、伊豆守のほうでもまた、極度に弾圧取り締まりに力をつくした時代で、ご府内すなわち江戸市中に浪人の潜入し、跋扈するのを防ぐために、五街道《ごかいどう》への出入り口出入り口に、浪人改めの隠し目付け屯所《とんしょ》なるものを秘密に設け、すなわち、東海道口は品川の宿、甲州街道口は内藤新宿《ないとうしんじゅく》、中仙道《なかせんどう》口は板橋の宿、奥羽、日光両街道口は千住《せんじゅ》に、それぞれまったくの秘密な隠し屯所を設けて、四六時中ゆだんなくそれらの五街道口を出入する浪人の身分改め、ならびに不審尋問を行ない、市中そのものにはまた一町目付けという隠語をもって呼ばれた、同じ浪人取り締まりの隠し目付け屯所を各町各町に設置しておいて、ある者は町人に化け、ある者はまた職人にやつして、市中在住の浪人どもを絶えず監視せしめ、かつまたその動静を内偵せしめて、大小残らずの報告を細大漏らさずおのれの身辺へ集中せしめるような、じつにおびただしくも精密な取り締まり網が張りめぐらされていたことを熟知していたればこそ、名人はさとくもそのくもの手のごとき浪人取り締まり網を利用しようと思いついたのでした。もしも、権藤四郎五郎左衛門なる長い名のその生駒家新浪人が、いちはやくご府外へ逐電したならば、五街道口のいずれかの隠し屯所へ、まだ市中に潜伏しているならば一町目付けのどこかの隠し場所へ、必ずなんらかの足跡動静を残しておいたであろうと知ったからです。
 命ぜられた采女以下の近侍も、もとよりそれなる浪人網は熟知してのこと、たちまちそこへ引き出した馬は、いずれも駿馬《しゅんめ》の八頭でした。秘密の急使に立つ乗り手の八人は、伊豆小姓と江戸に評判の美童ぞろい――。
「おう、いずれも用意ができたな。よいか、四人は街道口隠し屯所へ。あとの四人は市中の一町目付けへ、いま右門が申した人相書きの浪人を目あてに、ぬかりなく動静探ってまいれよ。念までもあるまいが、隠し屯所へ出入りいたすときは、人に見とがめられぬよう、じゅうぶんに注意いたすがよいぞ」
「はっ」
 とばかりに八美少年は、馬上ゆたかに雪の道を、八方に散っていきました。――ときに二更近くの五ツ下がり。

     4

 残った名人主従は、辰の霊前にじっと端座したままでした。つねならば千鳴り万鳴りの伝六が鳴らずにいるはずはないが、今宵《こよい》ばかりは別人です。
 思い出してはぽろり……。
 ぽろりとやってはまたぽろり……。
 大きな手でそれをふいてはまたぽろり……。
 伝六だけに、ひとしお哀れです。
 名人はもとより黙々として、これもじわり、じわりと、隠し涙を散らしました。
 そのかたわらに、古橋専介のひとり娘の小梅がしとやかに並んですわって、名人右門と一対の雛《ひな》ではないかと思われる美しい姿に美しい涙をためながら、なき父の霊前に、静かな回向《えこう》をささげつづけているのでした。
 宰相伊豆守も、高貴のおん身のおいといもなく、しんしんと降りまさり、しんしんとふけまさる雪の夜を冒して、お静かにそこに端座されたままでした。
 かくて半刻《はんとき》。――四半刻。
 それからまた四半刻。
 深夜の九ツが、上野のお山からわびしく鳴り伝わりました。
 と――タッ、タッ、タッ、というひづめの音です。満座、いろめきたって待ち構えているところへ――
「帰りましてござります!」
 第一着の姿を見せたのは、たれならぬ采女《うねめ》でした。
「おお! どうじゃ! どうじゃ!」
「わかりましてござりまするぞ! 手がかり
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