です。ただあるものは、比丘尼《びくに》小町うんぬんの妖々《ようよう》たるなぞのみでしたから、名人の秀麗な面がしだいしだいに蒼白《そうはく》の度を加え、烱々たるまなざしが静かに徐々に閉じられて、やがてのことに深い沈吟が始められたのはあたりまえなことでした。
 そして、一瞬!
 やがて、二瞬!
 つづいて、一瞬![#「一瞬!」は底本では「一瞬」]
 さらに、二瞬!
 ほとんど今までこれほどしんけんに考え沈んだことはあるまいと思われるほどに、黙念と長い間沈吟しつづけていましたが、突如! ――ずばりとさえた声が飛んでいきました。
「伝六ッ」
「ちッ、ありがてえ! 駕籠《かご》ですね! ――ざまアみろい! もうこれが出りゃこっちのものなんだッ。ひとっ走り行ってくるから、お待ちなせえよ!」
「あわてるな! 待てッ」
「えッ?」
「二丁だぜ」
「…………※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「何をパチクリさせてるんだ」
「だって、またちっともよう変わりのようじゃござんせんか! 二丁たアだれとだれが乗るんですかい」
「きさまとお公卿さまがお召しあそばすんだよ」
「…………※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「何を考えているんだい。いってることが聞こえねえのか」
「いいえ、ちゃんと聞こえているんですがね、やにわとまた変なことおっしゃいまして、どこへ行くんですかい」
「このおひざもとを、大急ぎでひと回りするんだ」
「ちぇッ、たまらねえことになりゃがったもんだな。じゃ、辰ッ、一刻千金だ、はええとこしたくをしろよ!」
「待てッ、あわてるな」
「でも、早駕籠で江戸をひと回りしろとおっしゃったんじゃござんせんか!」
「ただ回るんじゃねえんだよ。山の手に九人、下町に二十一人町名主がいるはずだ。辰あまだ江戸へ来て日があせえから山の手の九人、おめえは下町の二十一軒を回って、ふたりとも、いいか、忘れるな。もし町内に小町娘といわれるべっぴんがいたら、おやじ同道ひとり残らずあしたの朝の四ツまでに数寄屋橋《すきやばし》のお番所へ出頭しろと、まちがわずに言いつけておいでよ」
「ちぇッ。いよいよもってたまらねえことになりゃがったな。さあ、ことだぞ。ね、だんな――つかぬことをおねげえするようで面目ござんせんが、ちょっくら月代《さかやき》をあたりてえんですがね。それからあとじゃいけませんかね」
「不意にまた何をいうんだ。まごまごしてりゃ、回りきれねえじゃねえか」
「でも、小町娘を狩り出しに行くんだからね、暇があったら男ぶりをちょっと直していきてえんだが――、ええ、ままよ。男は気のもの、つらで色恋するんじゃねえんだッ。じゃ、辰ッ、出かけようぜ!」
 言い捨てると、疾風|韋駄天《いだてん》。のどかなお公卿さまもちょこちょこと小またに韋駄天――。
 見送りながら、名人は道の途中で自身番に立ち寄り、河童の権の始末を託しておくと、胸中そもなんの秘策があるのか、意気な雪駄《せった》に落とし差しで、ただ一人ゆうゆうと八丁堀へ道をとりました。

     4

 かくして、そのあくる朝です。
 ふたりの配下がけんめいに町名主どもへ伝達したとみえまして、申し渡した四ツ少しまえあたりから、いずれもなんのお呼び出しであろうといぶかりながら、遠くは乗り物、近くはおひろいで、それぞれ父親同道のもとに江戸美人たちが、ぞろぞろと名人係り吟味のお白州へ出頭いたしました。かりにこれが尋常普通のあまりおきれいでない女性であったにしても、三人五人と目の前へつぼみの花が妍《けん》を競ってむらがりたかってまいりましたら、よほど肝のすわっている者であっても、ぽうッといくらか気が遠くなるだろうと思われるのに、次から次へと姿を見せる者は、まこと三十二相兼ね備わった粒よりの逸品ばかりでしたので、生来肝のすわっていない伝六がことごとくもう精神に異状を呈して、さすがに小声でしたが、場所がらもわきまえず、たちまちうるさくお株を始めたのはいうまでもないことでした。
「ねえ、だんな! どうです。すっかり世間がほがらかになっちまうじゃござんせんか。これだから、お番所勤めはいくらどじだの、おしゃべり屋だのとしかられましても、なかなかどうして百や二百の目くされ金じゃこのお株は売れねえんですよ。ね、ほらほら、また途方もねえ上玉がご入来あそばしましたぜ。――でも、それにしちゃ、あのおやじめはちっとじじむさすぎるじゃござんせんか。もしかするてえと、もらい子じゃねえのかな。だとすると、これで広い世間にゃ、もらい合わせて跡めを譲ろうってえいうようなもののわかったやつがいねえわけでもねえんだからね、年もころあい、性はこのとおりの毒気なし、ちっと口やかましいのが玉に傷だが、そこをなんとか丸くおさめて、あっしが半口乗るわけにゃめえりますまいかね」
「…………」
「ちょッ、いやんなっちまうな。どういうお気持ちで狩り出したかしらねえが、だんなが発頭でお呼びなすったんじゃござんせんか。九人も十人もの小町娘をいっぺんに見られるなんてことあ、一度あって二度とねえながめなんですよ。やけにおちついていらっしゃらねえで、きょうばかりは近所づきあいに、もっとうれしくなっておくんなせえよ。な、辰ッ。おい、お公卿さまッ」
「…………」
「ちぇッ、のどかなくせに、きどっていやがらあ。寸は足りねえったって、耳は人並みについているじゃねえか。なんとか返事をしろよ」
「だって、このついたてが高すぎて、よく向こうが見えねえんだよ」
「ほい、そうか。高すぎるんじゃねえ、おめえがちっとこまかすぎるからな。じゃ、おれがふたり分|堪能《たんのう》してやるから、気を悪くすんなよ。――ねえ、だんな、ないしょにちょっと申しますが、ついでだからころあいなのをひとり見当つけておいたらどうですかい。あっしゃそればっかりが気になって、毎晩夢にまでも見るんですよ。似合いの小町とこうむつまじくお差し向かいで、堅すぎず、柔らかすぎず、ごいっしょに涼んでいらっしゃるところをでも拝見できたら、どんなにかあっしも涼しくなるだろうと思いましてね。――よッ。いううちに、今はいってきたべっぴん、だんなのほうをながめて、まっかになりましたぜ。助からねえな。おれなんかのほうは、半分だっても見当つけてくださる小町ゃねえんだからね」
 それがまた小声だけに、うるさいことは並みたいていでないので。しかし、名人はただ黙々。集まってきた小町美人のほうへはまったく目もくれないで、何を待つのか、しきりと出入り口にばかり烱々《けいけい》と注意を放っていたようでしたが、と――そのとき、おどおどとしながらうろたえ顔でお白州に姿を見せた者は、裕福らしい町家のおやじふたりです。と見ると、じつに右門流の中の右門流でした。
「よしッ。いま来たふたりのおやじがたいせつなお客だ。あとの者たちは、もう目ざわりだから、引きさがるように申し伝えろッ」
「…………」
「何をパチクリやってるんだ。幾人来たか数えてもみないが、あとの小町娘たちにはもうご用済みだからと申し伝えて、引きさがるように手配しろよ」
「…………」
「…………※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「血のめぐりのわりいやつだな。いつまでパチクリやってぽかんとしているんだ。きさまは河童権があんどんへ残していった文句覚えてねえのか。江戸の小町娘は気をつけろ、比丘尼小町に食われちまうぞと、気味のわるい文句があったじゃねえか」
「ちぇッ、そうですかい。じゃ、あんな文句が残っているからにゃ、どこかほかでもう比丘尼小町とやらにやられた娘があるだろうと眼がついたんで、わざわざ小町改めをしたんですかい」
「決まってらあ。いま来たあのおやじどもを見ろ。なにか思いもよらねえいわくがあるとみえて、おどおどうろたえているじゃねえか。だから、もう小町娘を無事に連れてきた親どもにゃ用はねえんだ。早く引きさがるよう申し伝えろッ」
「これだからな。化かされまい、化かされまいと思っていても、じつにだんなときちゃあざやかだからな、せっかく堪能できると油が乗り出してきたのに、しかたがねえや。じゃ、辰ッ、遠慮しねえでついたての陰から首を出しなよ」
「まてまてッ」
「えッ?」
「ここに十金あるから、帰りの乗り物代に分けてつかわせ。暑いさなかをご苦労だった、このうえとも娘どもはたいせつにしろと、ねんごろにいたわってやれよ」
「いちいちとやることにそつがねえや。おい、辰ッ。背のちっちぇえのが恥ずかしかったら、せいぜい伸び上がってついてきなよ」
 伝六、辰の配下たちが、そのまま帰してしまうのを惜しそうにひとりひとり手配したのを見すましてから、やおら名人はひざを進めると、いわくありげなふたりの町人に呼びかけました。
「遠慮はいらぬ。心配ごとがあらば、早く申し立てろ」
「へえい……」
「たぶん、両名とも娘たちの身の上に、何か異変があっての心配顔と察するが、どうじゃ、違うか」
「お察しのとおりなんでございまするが、でも、ちっと話がこみ入っているんでございますよ。じつは、ゆうべおそくに町名主がおみえなさいまして、この町内で小町娘と評判されているのはおまえのところのお千恵だけじゃ、しかじかかくかくでお番所から不意にお呼び出しがかかってきたから、四ツまでに出頭しろと、このように申されましたんで、なんのことやら、では参りましょうと、さっそくただいま、預けておいたところへ娘を連れに参りましたら、どうしたのでござりましょう、その娘がふいっと行くえ知れずになったのでござりますよ」
「なに! 預けておいたとな! 聞き捨てならぬことばじゃ。いつ、どうして、どこへ預けておいたか!」
「それがどうも、ちっと気味のわるい話なんでございますよ。聞けば、こちらの綿半さんも同じようなめにお会いなすったそうでございますが、ちょうど三日まえのことでございます。てまえは神田の連雀町《れんじゃくちょう》で畳表屋を営みおりまする久助と申す者でございますが、雨がしょぼしょぼ降っていました晩がた、おかしな比丘尼の女行者がひょっくりとやって参りましてな――」
「なにッ、女行者とな! 美人だったか!」
「へえい。目のさめるほど美しい比丘尼の行者でございましたが、ひょっくり、やって参りまして、いま通りかかりに見たのじゃが、おまえの家の屋の棟《むね》に妖気《ようき》がたちのぼっているゆえ、ほっておいたら恐ろしい災難がかかってくるぞ、とやにわにこのようなことを申しましたのでな、家内もてまえもそういうことは特別かつぎ屋でございますゆえ、何がそんなあだをするのでございましょうと尋ねましたら、気味のわるいこともあればあるものではござりませぬか。この屋敷には五代まえから白へびが主となって住んでいるはずじゃが、今まで一度も供養をせずにほっておいたゆえ、それがお怒りなすったのじゃ、とこんなことを申すんですよ。でも、そんなへびは祖先代々お目にかかったという話さえも承ったことがございませんゆえ、半信半疑に聞いておりましたところ、疑うならばお呼び申してしんぜようと申しまして、なにやら呪文《じゅもん》のようなことを二言三言おっしゃいましたら、二尺ばかりのまっしろいへびが、ほんとうに縁側からにょろにょろとはいってきたんでございますよ!」
「それで、いかがいたした。災難のがれに、娘を供養にあげろと申しおったか!」
「へえい。供養金を百両と、娘の千恵めを五日間お比丘尼さまのご祈祷所《きとうじょ》におこもりさせたら、へび静めができると、このようなことを申しましたゆえ、どんな災難がござりまするか、つまらぬあだをされてはと震え上がりまして、おっしゃるとおりにしましたところ、奇態ではござりませぬか、お祈祷所はそのままでございましたが、ただいま行ってみますると、娘もお比丘尼さまもどこへ行ったものやら、かいもくあとかたも見えないのでござります」
「綿半とやら、そちも同様だったか」
「へえい。一日だけてまえのほうが早いだけのことで、何から何までそっくりでござりました。ほかのものならそれほどもぎょうてんいたしませぬが、見たばかりでも
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