ではないのに、ひと目でもひとより近くかいま見ようと、互いに互いを押しのけながら、どっといちじにざわめきたちました。いっしょに川下の若衆屋形が、われこそ三国一の花婿的を射止めようと、これまた等しく色めきたったのはむろんのことです。
と見て、佳人琴女が、恥じらい恥じらい紅筆を取りあげた様子でしたが、やがてさらさらと書き流したは一枚のたんざく――
「おッ。そらそら、流すぞ! 流すぞ!」
つづいてまたさらさらと一枚。
「みろみろッ。若衆船がひしめき合って前に出てきたぞ」
いうまに、すらすらとまた一枚――
あとを追うようにまた一枚――
そして、五枚、七枚、八枚、十枚――
拾ってこれに最も巧みに恋歌を返した者が、式部小町をわが手にすることができるというんですから、三十艘のうえももやっていた若衆船が、われがちにときそいたったのは当然なことです。
だが、そのせつな!――、まことに人の世の吉凶禍福はあざなえるなわのごときものでした。たんざくを書き終えて流すまではなんらの異状も見せなかったのに、そもいったいどうしたというのでありましたろうぞ! 式部小町の座乗していた屋形船が、波もないのに突如左右へゆらゆらと揺れ動いたかと思われましたが、底からいちじに水でもが吹きあげてまいりましたものか、あッと思った間にぶくぶくと、吸われるごとく水中にめりこみました。時も時なら、おりもおりでしたから、思わぬ珍事|出来《しゅったい》に風流優雅の絵模様を浮かべたたえていた水上は、たちまち混乱|騒擾《そうじょう》の阿修羅《あしゅら》地獄にさまを変えたのは当然――
「火だッ、火だッ。早くたいまつ燃やせッ」
「どっちだッ、どっちだッ、姿が見えねえじゃねえかッ」
「こっちだッ、こっちだッ。ひとり抱き上げたから、早くなわを投げろッ」
響き合わせて、土手の上も喧々囂々《けんけんごうごう》と声から声がつづきました。
「あがったな、だれだッ、だれだッ。先生か、お嬢さまかッ。姿は見えねえかッ」
「髪のぐあいが小町らしいぞッ」
「違うッ、違うッ。おやじらしいぞッ」
と――わめき叫んでいる群集のうしろから、そのとき、突如聞いたような声が起こりました。
「じゃまだッ、じゃまだッ。道をあけろッ。通れねえじゃねえかッ」
いっしょに見たような顔が、にょっきりと現われましたので、よくよく見定めると、聞いたも道理、見たようなのも道理、声の主、姿の主はだれならぬ、われらのあいきょう男伝六でした。つづいてそのわきの下をくぐりぬけながら、まめまめしく飛び出したのは、のどかなお公卿《くげ》さまの善光寺|辰《たつ》でした。だのに、すこぶる不思議、ふたりの太刀《たち》持ち露払いが姿を見せた以上は、当然そのあとに名人右門が、あの秀麗かぎりない面にゆうぜんとあごをなでなで立ち現われるだろうと思われたのに、どうしたことかその姿がないのです。いつまでたっても見えないのです。
けれども、ふたりの者には来ない理由がよくわかっているとみえて、必死に人込みを押し分けながら、岸べまで駆け降りていった様子でしたが、伝六が例の調子で、ガンガンとどなりながらいいました。
「伝馬《てんま》ッ、伝馬ッ。やい! そこの伝馬ッ。何をまごまごしてるんだッ。早くこっちへつけねえかッ」
「べらぼうめッ。おうへいな口ききゃがるねえ! おめえたちやじうまを乗せるためにこいでいる伝馬じゃねえや! こっちへつけろが聞いてあきれらあ!」
「なんだとッ。やじうまたあ何をぬかしゃがるんでえ! 八丁堀《はっちょうぼり》の伝六親方を知らねえかッ」
まことに伝六の名声広大とも広大――といいたいが、実は八丁堀といった啖呵《たんか》がものをいったとみえまして、通りすがりの伝馬船が倉皇《そうこう》としながら舳先《へさき》を岸へ向けましたので、ふたりはひらりと便乗――まだ混乱のままでいる現場へこがしていってみると、しかるにこれがすこぶる奇態です。屋形がぶくぶくとやりだすと同時に、乗り合わせていた船頭はいうまでもないこと、もよりの舟からもいっせいに舟子《かこ》どもがおどり込んで必死と水へもぐり、必死と流れを追って、三方五方から時を移さず救助を開始いたしましたのに、父先生の神宮清臣と介添え役の小童《こわらべ》はすぐに揚げられましたが、どうしたことか、式部小町の琴女だけは、流れたものか沈んだものか、いまだに行くえ不明であることがわかりましたものでしたから、うろたえて促したのは善光寺辰でした。
「こりゃいけねえ! な、おい伝六あにい! どうやらおれたちだけじゃ手に負えねえようだから、早くだんなに知らそうじゃねえか!」
「待てッ、待てッ、そう騒ぐなよ」
「だって、何かいわくがありそうだから、おれたちがまごまごするより、早いところだんなの耳へ入れたほうがいいじゃねえ
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