用ならば家の名誉にもござりますゆえ、あらば隠すどころか、進んでも申しまするが、せっかくながら、この三年来、ただの一度もお尋ねのようなことはござりませぬ」
 うそとは思えぬ面ざし向けて、きっぱりと言いきったものでしたから、予想のほかの的のはずれにはたと当惑したのは名人でした。また、これはいかな名人とても当惑するのが当然なので、第一の急所たるべき半弓|詮議《せんぎ》に望みが絶えたとならば、残るてだてはいずれもことごとく困難なものばかりです。例のからめて戦法にしたがい、非業の最期を遂げたおへやさまの素姓を洗ったうえで、いかなる恨みのもとにかような所業を敢行したか、そこから手を染めるのが一法。しからずんば、三百諸侯をひとりひとり当たって、西条流半弓の名手といわれる大名をかぎ出すのがまたその一法でしたが、しかるにからめて吟味そのものはすでに品川表のあの一条のごとく、無念ながらご三家ご連枝の威権によって剣もほろろに峻拒《しゅんきょ》されたあとであり、三百諸侯を洗うについては、これまた悲しいことに月とすっぽんどころか、あまりにも身分が違いすぎましたので、さすがの捕物名人も、ことごとくあぐねきってしまいました。
「ちぇッ。しようのねえだんなだな。八丁堀へけえるんだったら、そっちゃ方角ちげえですよ。そんなほうへやっていったら、信州へ抜けちまうじゃござんせんか」
 いわれるほどに道々思いに沈んで、ようようのことにお組屋敷へしょんぼりと帰りつくや、ぐったりそこへうち倒れてしまいました。捕物はじまってここに十六番、かつて見ないほどにも意気|悄沈《しょうちん》のもようでしたから、おこり上戸、おしゃべり上戸とともにいたって泣き上戸の伝六が、おろおろと手放しで始めました。
「ねえ、だんな。――だんなってたら、ちょっと、だんな。しようがねえな。あっしまでが悲しくなるじゃござんせんか。しっかりしておくんなせえよ。――」
 聞き流しながら、知恵も才覚もつき果てたようにややしばしぐったりとなったままでいましたが、しかし、そのうちに名人の手がそろりそろりと、あごのあのまばらのひげのところへ持っていかれました。ここへ静かに手先が伸びていくと、曇った空がたいていのとき晴れだすのが普通でしたから、それと知って、今のさっきまでの泣き上戸伝六が、たちまち喜び上戸に早変わりしたのはいうまでもないことです。
「おッ。みろみろ、辰ッ。もぞりもぞりとおはこが出かかったから、静かにしろよ。あのつんつんとひっぱるやつがお出なさりゃ、じきに知恵袋の口があくんだからな」
 と――いうかいわないうちに、果然、むくりと起き上がるや、微笑とともにあいきょう者へ、朗らかなところが飛んでいきました。
「な、伝六ッ」
「ありがてえ! 出ましたか!」
「出ねえでどうするかい。おれともあろうものが、とんだおかたのいらっしゃることを度忘れしていたもんじゃねえか。こういうときのお力にと、松平伊豆守様というすてきもないうしろだてがおいでのはずだよ」
「ちげえねえ。ちげえねえ。じゃ、老中筆頭というご威権をかりて、まっさきに尾州様へお手入れしようっていうんですね」
「と申しあげちゃ恐れ多いが、身分の卑しさには、それより道がねえんだ。三百十八大名をかたっぱし洗って、西条流半弓のお手きき殿さまをかぎつけることにしてからが、同心や岡《おか》ッ引《ぴ》きじゃ手が出ねえんだからな。こういう場合の伊豆守様だよ」
「大きにちげえねえや。それにまた、松平のお殿さまだって、お自分がお出迎えのさいちゅうにあんな騒動が降ってわいたんだからね。今まで、だんなにおさしずのねえのが不思議なくらいですよ」
「だから、まずおまんまでもいただいて、ゆるゆると出かけようじゃねえか。さっき品川でかに酢をどうとかいったっけが、ありゃどうしたい」
「ちぇッ。これだからあっしゃ、だんなながらときどきあいそがつきるんですよ。十ばかりさげてけえりましょうかといったら、とてつもなくしかりつけたじゃござんせんか。もういっぺんあごをなでてごらんなせえな」
「ほい。そうだったかい、今度は一本やられたな。じゃ、ちっとじぶんどきがはずれているが、いつもおかわいがりくださる伊豆守様だ。あちらでおふるまいにあずかろうよ」
 いいつつ、蝋色鞘《ろいろざや》を腰にしたとき――、表であわただしくいう声がありました。
「ご老中さまから火急にお差し紙でござります」
「なに! 伊豆守様からお差し紙が参ったとな――伝六ッ。なにかご内密のお力添えかもしれぬ、はよう行けッ」
 今、お力を借りに行こうといったその松平のお殿さまから、それも火急のご書状といいましたので、いかで伝六にちゅうちょがあるべき、――ねずみ舞いをしながら出ようとすると、四尺八寸のお公卿《くげ》さまが、いたってまめやかでした。のどかな顔をしながら、ちょこちょこと飛んでいったようでしたが、すでにそこへうやうやしくお差し紙をいただいて帰りましたものでしたから、取る手おそしと開いてみるに、そもいったいなんとしたものでありましたろう!
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「――ただいま尾州家より家老をもって内々のお申し入れこれあり、品川宿の一条に対する詮索《せんさく》詮議《せんぎ》は爾今《じこん》無用にされたしとのことに候《そうろう》条、そのほう吟味中ならば手控えいたすべく、右伝達いたし候。
[#ここから3字下げ]
松平伊豆守
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]近藤右門へ」
 意外にも吟味差し止めのいかめしやかなお書状でしたから、晴れたと見えたのもつかのま、この世の悲しみを一度に集めたごとく青々と面を青めると、力なく言い捨てました。
「伝六。床を敷け」
「…………」
「何を泣くんだ。泣いたって、しようがねえじゃねえか。早く敷きなよ」
「でも、あんまりくやしいじゃござんせんか」
「身分が低けりゃしかたがねえんだ。なんぞ尾州様におさしつかえがおありなさるんだろうから、早く敷きなよ」
「じゃ、辰とふたりでお口に合うものをこしれえますから、おまんまだけでも召し上がってから、お休みくだせえましな」
「胸がつかえて、それどころじゃねえんだ。世の中があじけなくて、生きているのもこめんどうになったから、早く敷いて寝かしてくれよ」
 悲しげに横たわると、そのまますっぽり夜具の中に面をうめてしまいました。

     4

 その翌朝。――
 勤番出仕の時刻が来ても、なお名人は床にはいったままでした。ほんとうに世の中があじけなくなりでもしたか、いつまでもいつまでも床の中にはいったままでした。また、名人の身になってみれば、およそこの世にこれ以上のせつないことはなかったのでありましょう。日ごろご愛顧くださる伊豆守様までが詮議を禁じたうえに、そのまた禁じ方なるものが、さながら尾州家において名人の出馬するのを恐るるもののごときけはいがうかがわれましたものでしたから、身分の相違、役の低さに、しみじみとこの世がはかなく思えたのはむべなりというべきでした。しかも、その身に無双の才腕、無双な慧眼《けいがん》知力のあるにおいてをや[#「おいてをや」は底本では「おいておや」]です。だから、伝六、辰の両名が、河童《かっぱ》が陸《おか》へ上がったよりより以上に、日月|星晨《せいしん》をいちじに失いでもしたかのごとくすっかり影が薄くなったのは当然なので、しょんぼりと小さくまくらもとにすわりながら、黙々、ぽつねんとうち沈んだままでした。
 だのに、世間の中にはうるさいやつがあればあるものです。
「お願いでござります! お願いでござります!」
 不意に表玄関先で、けたたましく言いどなった声がありましたものでしたから、おこり上戸の伝六が八つ当たりに爆発させました。
「やかましいや! きょうはお取り込みがあるんだから、手の内ゃ出ねえよ!」
「いいえ、物もらいではござりませぬ! 右門のだんなさまのお屋敷と知って、お力借りに駆けつけました者でござりますゆえ、おはようお取り次ぎくださりませ!」
「うるせえな! お通夜《つや》に行ったって、こんなに悲しかねえんだッ。用があるなら庭へ回れッ」
 よほどうろたえているとみえ、ずかずか庭先へはいってくると、あわただしく言いたてました。
「てまえはつい目と鼻の小伝馬町に、もめん問屋を営みおりまする駿河屋太七《するがやたしち》の店の手代でござりまするが、ただいまたいへんでござります。おかしなご家人ふうのゆすりかたりがやって参りまして、小判千両出さずばぶった切るぞと、だんびらをひねくりまわしながら、しつこくおどかしてでござりますゆえ、お早くお取り押えくださりませ。お願いでござります!」
 伝六がちょっと色めきながら、どういたしましょうというように振り返ったのをぴたりと押えて、名人が吐き出すごとくにいいました。
「世の中があじけなくなってくると、訴えてくることまでがこれなんだッ。たかの知れたご家人ふぜいのゆすりかたりぐれえで、もったいなくもこのおれが、そうやすやすとお出ましになれるけえ。二、三十枚方役者が違わあ。おめえたちふたりにゃちょうどがら相当だから、てがらにしたけりゃ、行ってきなよ」
「じゃ、辰ッ。どうせ腹だちまぎれなんだから、あっさり締めあげちまおうかッ」
「おもしれえ。そうでなくとも、おいら、ゆんべから投げなわの使い場がなくて、うずうずしてるんだから、ちょっくら行ってこようよ」
 勢い込んで、手代のあとに従いながら、駆けだしていったようでしたが、ものの四半刻《しはんとき》もたたないうちにすごすごと帰ってきたのは、伝六、辰の両名でした。出がけにいったほどあっさりといかなかったのか、およそ面目なさそうでしたから、名人がややいぶかって、きき尋ねました。
「どうしたい。がら相当でもなかったのかい」
「へえい……」
「ただへえいだけじゃわからぬよ、向こうが強すぎたのかい。それとも、おまえたちが弱すぎたのか」
「ところが、どうもそいつが、からっきしどっちだかわからねえんでね。今も道々辰とふたりで、首をひねりひねり来たんですよ」
「あきれ返ったやつらだな。じゃ、ご家人でなかったのかい」
「いいえ、それがいかにも変なんだから、まあ話をお聞きなせえよ。行ってみると、ひと足ちげえに、ご家人の野郎め千両ゆすり取りやがって、今ゆうゆうとあの駕籠で出かけたばかりだからといったんでね。それっとばかりに、辰とふたりしながら追っかけて、手もなく駕籠を押えたまではいいんだが、それからあとが、いかにもおかしいじゃござんせんか。駿河屋の店先から乗ったときにゃ、正真正銘のご家人だったというのに、中を改めてみるてえと、いつの間に人間をすり替えりゃがったか、似てもつかねえ按摩《あんま》めが澄まして乗り込んでいるんですよ」
「ほほう。なるほど、ちっと変だな。それからどうしたい」
「でもね、いっしょに追っかけていった番頭がいうにゃ、しかと乗って出た駕籠にちげえねえというんでね、按摩の野郎を締め上げようとするてえと、こいつが偉い啖呵《たんか》をきりゃがったんですよ。ご禁裏さまから位をいただいた鈴原|※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校《けんぎょう》じゃ。不浄役人ふぜいに調べをうける覚えはない、下がれッとぬかしやがったんでね。くやしかったが、位のてまえ、そのまま引き揚げたんですよ」
「なかなかぬかすな。頭は坊主か。それとも、何かかむっていたかい」
「※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校ずきんって申しますか、ねずみちりめんの、袋をさかさまにしたようなやつを、すっぽりかむっていましたよ」
「かわえそうに、みんごとお兄いさまたち、やられたな」
「じゃ、やっぱり化けていやがったんでしょうかね」
「あたりめえだ。ずきんの下でご家人まげが笑っていたことだろうよ。たぶん、針の道具箱もあったろうがな」
「ええ、ごぜえましたよ、ごぜえましたよ。なんだか知らねえが、特別でけえやつが、ひざのところに寄せつけてありましたぜ」
「しようのねえやつらだな。その道具箱の中に、千両はいっているん
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