てると、伝六は早かごの用意。お公卿さまにてつだわさせた名人は、南部つむぎに浜絽《はまろ》の巻き羽織、蝋色鞘《ろいろざや》は落としざしで、素足に雪駄《せった》の男まえは、いつもながらどうしかられても一苦労してみたくなるりりしさでした。

     5

 かくて、前後三丁、景気よく乗りつけたところは、両国河岸の中村梅車なる一座です。時刻はちょうど昼下がりの八ツ手前――。今と違って、あかりの設備に不自由なお時代なんだから、しばいとなるとむろん昼のもので、表方の者にきくと、ちょうど四幕めの幕合いということでしたから、にらんだ犯人《ほし》なる勘当宗助、はたして一座にいるやいなやと、ずかずか棧敷《さじき》のほうから小屋の中へはいっていきました。
 と――。どうしたことか、棧敷土間いっぱいの見物が、いずれも総立ちになりながら、しきりとなにかわいわいとわめき騒いでいるのです。その騒ぎ方がまた尋常一様ではなかったので、いぶかしく思いながら、かたわらの見物にきき尋ねました。
「なにごとじゃ。何をわめきたてているのじゃ」
「だって、あんまり座方の者がかってをしやがるから、だれだっても見物が鳴りだすなあたりまえじゃござんせんか。じつあ、この一座に尾州下りの市村宗助っていう早変わりのうめえ役者がいるんですがね。これから幕のあく色模様名古屋|音頭《おんど》で、市村宗助が七役の早変わりをするってんで、みんなそれを目当てでやって来たのに、今にわかと用ができて舞台に出られねえと頭取がぬかしゃがったんで、このとおりわめきだしたんですよ」
 早変わり役者で、あまつさえ名も宗助といったものでしたから、なんじょう名人の目の光らないでいらるべき! ただちに楽屋裏へやって行くと、居合わした道具方に鋭くきき尋ねました。
「市村宗助はいるか、いないか!」
「今、楽屋ぶろから上がってきたようでしたから、まだいるでしょうよ」
「へやはどこじゃ」
「突き当たりの左っかどです」
 走りつけていってみると、だが、目を射たへやの光景とその姿!――案の定、高飛びをするつもりからか、伝六がいったあのときの駕籠の中の鍼灸《しんきゅう》の道具箱を、たいせつなもののようにそばへ引きよせて、本人なる宗助自身は、巧みなその早変わりを利用しつつ、今度は女に化けて逐電しようという計画のためにか、なまめかしい緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゅばん》を素はだにひっかけながら、楽屋いちょうに結った髪のままでせっせと顔におしろいを塗っているさいちゅうでした。しかも、そのうしろには、にらんだとおり西条流の半弓が、まだ残っている六本の鏑矢《かぶらや》もろとも、すべての事実を雄弁に物語るかのごとくちゃんと立てかけてあったものでしたから、名人のすばらしい恫喝《どうかつ》が下ったのは当然!
「鈴原|※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校《けんぎょう》! 駿河屋《するがや》のかえりには手下どもが偉いご迷惑をかけたな」
「ゲエッ――」
 といわぬばかりにぎょうてんしたのを、つづいてまたピタリと胸のすく一喝《いっかつ》――
「みっともねえ顔して、びっくりするなよ。さっきとこんどとは、お出ましのだんなが違うんだッ。むっつり右門のあだ名のおれが目にへえらねえのか!」
 きいて二度ぎょうてんしたのはむろんのことなので、しかるに市村宗助、なかなかのこしゃくです。三十六計にしかずと知ったか、楽屋いちょう、緋縮緬、おしろい塗りかけた顔のままで、やにわとうしろにあった西条流半弓を鏑矢《かぶらや》もろとも、わしづかみにしながら、おやま姿にあられもなく毛むくじゃら足を大またにさばいて、タッ、タッ、タッと舞合表へ逃げだしましたので、名人、伝六、辰の三人も時を移さず追っかけていくと、だが、いけないことに舞台はちょうど幕をあけて、座方の頭取狂言方が、宗助出せッと鳴りわめいている見物に向かって、平あやまりにわび口上を述べているそのさいちゅうでしたから、不意に飛び出した四人の姿に、わッと半畳のはいったのは当然でした。
「よよッ、おかしな狂言が始まったぞッ」
「おやまの役者が、弓を持っているじゃねえか!」
「おしろいが半分きゃ塗れていねえぜ」
 叫びつつ総立ちとなって、花道にまでも見物があふれ出たものでしたから、ために逃げ場を失った宗助は、ついにやぶれかぶれになったものか、突如、きりきりと引きしぼったのは、西条流鏑矢の半弓!――弓勢《ゆんぜい》またなかなかにあなどりがたく、寄らば射ろうとばかりにねらいをつけようとしたせつな。――だが、われらの名人の配下には、善光寺の辰という忘れてならぬ投げなわの名手がいたはずです。
「野郎ッ。ふざけたまねすんねえ! 昼間だっても、おれの目は見えるんだぞッ」
 いうや、するするとその手から得意の蛇《じゃ》がらみ
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