かな顔をしながら、ちょこちょこと飛んでいったようでしたが、すでにそこへうやうやしくお差し紙をいただいて帰りましたものでしたから、取る手おそしと開いてみるに、そもいったいなんとしたものでありましたろう!
[#ここから1字下げ]
「――ただいま尾州家より家老をもって内々のお申し入れこれあり、品川宿の一条に対する詮索《せんさく》詮議《せんぎ》は爾今《じこん》無用にされたしとのことに候《そうろう》条、そのほう吟味中ならば手控えいたすべく、右伝達いたし候。
[#ここから3字下げ]
松平伊豆守
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]近藤右門へ」
 意外にも吟味差し止めのいかめしやかなお書状でしたから、晴れたと見えたのもつかのま、この世の悲しみを一度に集めたごとく青々と面を青めると、力なく言い捨てました。
「伝六。床を敷け」
「…………」
「何を泣くんだ。泣いたって、しようがねえじゃねえか。早く敷きなよ」
「でも、あんまりくやしいじゃござんせんか」
「身分が低けりゃしかたがねえんだ。なんぞ尾州様におさしつかえがおありなさるんだろうから、早く敷きなよ」
「じゃ、辰とふたりでお口に合うものをこしれえますから、おまんまだけでも召し上がってから、お休みくだせえましな」
「胸がつかえて、それどころじゃねえんだ。世の中があじけなくて、生きているのもこめんどうになったから、早く敷いて寝かしてくれよ」
 悲しげに横たわると、そのまますっぽり夜具の中に面をうめてしまいました。

     4

 その翌朝。――
 勤番出仕の時刻が来ても、なお名人は床にはいったままでした。ほんとうに世の中があじけなくなりでもしたか、いつまでもいつまでも床の中にはいったままでした。また、名人の身になってみれば、およそこの世にこれ以上のせつないことはなかったのでありましょう。日ごろご愛顧くださる伊豆守様までが詮議を禁じたうえに、そのまた禁じ方なるものが、さながら尾州家において名人の出馬するのを恐るるもののごときけはいがうかがわれましたものでしたから、身分の相違、役の低さに、しみじみとこの世がはかなく思えたのはむべなりというべきでした。しかも、その身に無双の才腕、無双な慧眼《けいがん》知力のあるにおいてをや[#「おいてをや」は底本では「おいておや」]です。だから、伝六、辰の両名が、河童《かっぱ》が陸《おか》へ上が
前へ 次へ
全24ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング