にゆえ逃げおった」
「へえい……」
「へえいではわからぬ。わしがなんという名のものであるか、もうわかったであろうな」
「へえい。ようようただいまわかりましてござります。初めからむっつり右門のだんなさまと知りましたら、逃げるんではございませんでしたが、こんなことになったのも、あの気味のわるいお大尽に見込まれたのがそもそもの不運でござりましょうから、身の災難とあきらめまして、もうじたばたはいたしませぬ」
「では、これなる怪しの髪の毛を携えて、人形師|藤阿弥《ふじあみ》のところへ注文に参ったはそちでないと申すか」
「いいえ、使いに立ったのはいかにもこの蛸平めにござりまするが、頼み手はあそこの気味のわるいお大尽でござりまするよ」
「なに、あの老人とな。うち見たところ常人でなさそうじゃが、気でも狂いおるか」
「それが、さっぱりてまえにも、正気やら狂気やら見境がつかないんでござりまするよ。忘れもいたしませぬが、三日まえの朝早くでござりました。だれでもよいから幇間《たいこもち》をひとり呼べというご注文だとか申しましてな、こちらの四《よ》ツ菱屋《びしや》さまからてまえのところにお座敷をかけてくださいましたんで、なんの気もなく伺いましたら、今、だんながお持ちの丁子油がしみた髪の毛と戒名を書いた丈長《たけなが》に五十両を渡しまして、至急にこの毛を植えた十七、八の娘人形をととのえろ、とのおことばでござりましたんで、さっそく藤阿弥のところでお言いつけどおりの品を求めてまいりましたら、それまではたしかにご正気でござりましたが、どうしたことやら、人形をご覧になると、急に気が変になりましてな、ちょうど今晩でまる三日、あんなふうに小判の山を目の前にお積みなさいましておいて、日に二百人ずつこのくるわの花魁《おいらん》衆をかたっぱしお揚げなさっては、なにかぶつぶつ人形としゃべりながら、ひとりに二両ずつご祝儀をきっているんでございますよ。――ほらほら、いううちに、また始めたんじゃござんせんか、よくご覧なさいましよ」
いわれましたので、目を転ずると、いかさまじつに奇態でした。毛をはぎとられた丸坊主の京人形をしっかりとその胸に抱きすくめるようにしながら、ふらふらと狂えるもののごとくに立ち上がったかと思われましたが、と――不意に奇妙なことばを人形に向かって、さながら生あるもののように話しかけました。
「な、
前へ
次へ
全29ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング