ぴたりと船底に平みついて、いまやおそしと近づくのを待っていましたが、まこと相手はおそるべき水泳の達人でした。いや、おそるべき怪技を有する怪人でした。相当目方があるべきはずなわきざしを鞘《さや》ぐるみしっかと口にくわえて、あざやかな抜き手をきりながら、ご府内名うての大隅田川《おおすみだがわ》を一気にこちらまで泳ぎ渡ってまいりましたので、息をころしながら待ちうけていると、だが、不思議です。じつに不思議です。覆面の小がらなそれなる怪人は、岸へ泳ぎつくと、ぐっしょりぬれた着物からぽたぽたと水玉をおとしながら、まるで何かの物の化《け》につかれてでもいるかのごとく、ひょうひょうふらふらと歩きだしました。それも、尋常普通のふらふらした歩き方ではないので、足のある幽霊がさながら風に乗ってでもいるかのごとく、まっすぐに向こうを向きながら、ふわりふわりと歩きだしましたので、伝六はもとよりのこと、さすがの右門もややぎょッとなっていたようでしたが、やにわとうしろに近づくと、一声鋭く大喝《だいかつ》いたしました。
「バカ者ッ。どこへ行くかッ」
 と――なんたる奇怪さでありましたろう! 右門の大喝一声とともに、ふ
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