ざら無理はあるまいと思われるのに、右門はいたって悠揚《ゆうよう》と春雨の優雅を愛しながら、ご番所のほうへ歩を運ばせてまいりました。
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ところが、ご番所へ行ってみると、果然伝六の言が的中いたしました。今度失敗すれば五へんめであり、かたがた相手はあばたの敬四郎という破廉恥漢なんだから、いかなむっつり右門でも、もう少し警戒したほうがよさそうにと思われたのに、少しおちついていすぎたものか、敬四郎の魔の手がすでに伸びていたあとでした。
それも、根が敬四郎のことだから、普通の魔の手ではないので、右門のはいっていった姿を見ると、それに居合わした同僚のひとりが、きのどくそうにいいました。
「せっかくじゃが、ひと足おそうござったな。お奉行《ぶぎょう》さまがだいぶそなたをお待ちかねの様子じゃったが、お越しがなかったから敬四郎どのにご命令が下りましたぞ。もっとも、ああいうかただから、しきりと敬四郎どののほうからお頼みしていた様子じゃったがな」
「ではもう、てまえが手を下さなくともよろしいとのご諚《じょう》でござりまするな」
「そのような仰せでござりましたよ。敬四郎だけではちっと心もとないが、それほど本人が頼むなら、任してみるのもよろしかろうから、右門が参ったならば、いさぎよく手を引くよう申して、二、三日ゆっくり休養いたせと、このような仰せでござりましたよ」
うまくことづてを横取りしたのをさいわい、お奉行職へ陰険な自薦運動を試みて、あきらかに右門の出馬を阻止した形跡が歴然としていましたものでしたから、さっそく鼻を高くしてがみがみときめつけだしたものは、いわずとしれた伝六でした。
「そら、ご覧なせえましな! 相手が人間の皮をかぶったやつならいいが、どぶねずみみたいなけだものだから、あんなにさっきせきたてたのに、雨がおつだの、柳がどうのと、隠居じみた寝言に夢中でいなすったから、こういうことになるんですよ。あっしゃもう知りませんぜ」
水の出ばなの美丈夫右門を、とうとう隠居にこきおろしてしまって、しきりと口をとがらしていましたが、しかし右門は静かに微笑したきりでした。そこの訴状箱をかきまわしながら、指を切りとられたという訴えの、小石川台町と厩河岸の所番地を書き取って、そっとそれを懐中しながら、何かうそうそと皮肉そうに笑っていましたが、表へ出るとぽつり伝六にいいました。
「ではひとつ、どこかへ物見|遊山《ゆさん》にでも行こうかな。二、三日ゆっくり休養しろとおっしゃったそうだから、久方ぶりに浅草の見せ物小屋でものぞきに行こうじゃねえか」
「いやですよ!」
「ほう、えらいけんまくだな。では、しかたがねえや。ひとりで出かけようぜ」
伝六の雲行きがすばらしく険悪でしたので、右門は笑いわらい濠《ほり》ばたのほうへ曲がっていくと、そこに帳場を張っているご番所の町駕籠をあごでしゃくりながら、ゆったりうち乗りました。
とみて、すねはすねたが、やっぱり伝六はかわいいやつで――
「行きますよ! 行きますよ! あっしのかんしゃくは親のせいなんだから、いまさらひとりぼっちにしなくったっていいじゃござんせんか! ――おうい、駕籠屋! 駕籠屋!」
べそをかかんばかりに駆け寄りながら、あわてて駕籠を仕立てましたので、右門はくすくす笑いながら、絹雨にけむりたつ枝柳の濠ばたを、ずっと浅草めがけて走らせました。
だが、いったように浅草へ行くには行ったが、その駕籠を乗りつけさせたところは不思議です。例の苦み走った折り紙つきの男まえに、それも前夜|月代《さかやき》をあたらしたばかりなんだから、いっそう水々しくさえまさってみえる男まえに、おなじみの蝋色鞘《ろいろざや》をおとし差しで、
「許せよ」
おうようにいいながら、そこの支倉屋《はぜくらや》と書かれた絵双紙屋の店先へずかずかとはいっていったようでしたが、店の奥にこごまっている主人らしい男をみかけると、とつぜん妙な品を尋ねました。
「江戸の絵図面を板《はん》におこして、売りさばいている店は、たしかにそのほうのところだったと存じて参ったが、違うかな」
「いいえ、てまえのところでございます。こればっかりはお許しがないと売り出せぬ品でございますゆえ、てまえの店の一枚看板にしておりますが、ご入用でございますか」
「さよう、あったら一枚売ってくれぬか」
買いとってだいじそうに懐中すると、見せ物小屋のほうへ行くかと思うとそうではないので、待たしておいた駕籠をうたせながら、ずっと帰ってきたところは八丁堀《はっちょうぼり》の組屋敷です。それも帰ってくると、いまさら江戸の地図なぞを調べて、なんのたしになるかと思われるのに、あちらへこちらへと何本も赤い線を引きつつ、しきりにながめ入っていたものでしたから、またお株を始めたのは伝六でした
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