れる音です。それもどうやら一時にあふれ出るような水音で、あまつさえその方角がまだのぞいてみなかった召し使いどもの用いる湯殿のほうでしたから、右門は時を移さずにやって行くと、この世におれの目の届かないところはないはずだといわぬばかりに、ぎろり中をのぞきました。
と――、果然水音の出どころはそれなる湯殿の中で、不思議なことに丸い湯ぶねはちゃんとふたがきせられてあるにかかわらず、その周囲には今おけからあふれ出たばかりらしい暖かそうなお湯がもうもうと湯気をたてながら流れていたものでしたから、右門はそれを認めるや、くすり大きく笑っていたようでしたが、いきなり歩みよって、しっかり湯おけのふたを上から押えつけると、笑いわらい、伝六へ命じました。
「長生きはしてえもんじゃねえか。今日さまが毎日東から出るこたあ知っているが、まだこんな珍しい湯おけを見たことがねえよ。ついでのことに、伝馬町までみやげにしてやろうから、どこかその辺へ駆けていって、力のありそうな駕籠屋どもを三、四人ひっぱってきなよ」
「なるほどね、こいつあいかにも珍品にちげえねえや。じゃ、ひとっ走りいってきますから、しっかりふたを押えていなせえよ」
魯鈍《ろどん》なること伝六ごときものをもってしても、ふたはふさったままでいるのに、外には今なかからあふれ出でもしたような、お湯の流れ伝わっているそんな化けぶろおけは、めったにお目もじのできない品物でしたから、早くもそれと知ったか、丸くなって表へ飛び出していったようでしたが、まもなく命じたとおりの屈強な裸人足どもを四人引き連れまして、珍しくも気のきいたことには、がんじょうな麻なわすらも携えてまいりましたので、右門はただちに人足どもに命じて、じゅうぶんに湯おけをふたごとくくらしました。
といっしょに、ばちゃばちゃと中でもがきながら、案の定言い叫んだ弥三郎の声がありました。
「恐れ入りましてござります。もうけっしてむだなお手数はおかけいたしませぬによって、どうかふただけお取りくださいまし。とても湯気がこもって生きた心持ちはござりませぬゆえ、ふただけはお取りのけくださいまし」
しかし、右門は厳としていいました。
「うすみっともねえ泣きごとをいうな。加賀百万石のお殿さまだっても、お湯に浸ったままで江戸の町を道中するなんておぜいたくはなさらねえじゃねえか。それに、きさまひとりのために命を失ったものがふたりもあるんだから、熱いくらいはがまんしろ」
きびしくしかりつけておくと、いかさま加賀百万石をうちしのぐ珍道中ぶりで、人足どもにそれをかつがせながら、草香流におまじないをされたままで玄関先にのけぞっている悪旗本どもをしり目にかけつつ、さっさと伝馬町へ急がせました。
いうまでもなく、伝馬町にはあばたの敬四郎が例のあの悪い癖を出して、見当違いなホシとも知らずに、きっと今も無実の美男|相撲《ずもう》、江戸錦四郎太夫を痛み吟味にかけているだろうと思ったからでありますが、案の定乗りつけてみると、ありとありたけの責め道具をそこに並べて、いたけだかになりながら必死と痛めつづけていましたものでしたから、右門はやにわに敬四郎の目前へどかりふろおけをうちすえさせると、微笑を含みながら、やや皮肉にいいました。
「やぶにらみもいいかげんにしなせえよ。さっきの死骸の駕籠のお礼に、人間の湯づけを一匹おみやげに持ってまいりましたから、じっくりとこの中の野郎をご覧なせえな」
いうや、ぷつりとなわを切って、ふたを取りはずしてやったものでしたから、ゆでだこのようなまっかな顔でへとへとになりながら飛び出した者は、旅装束をつけたままで湯づけの道中をしてきた不逞漢《ふていかん》弥三郎でした。
といっしょで、感謝あまったものか、江戸錦が、うしろ手にいましめられたままの大きなからだをがばとそこへ折り曲げると、右門のほうを伏し拝むようにしながら、白州の砂礫《されき》にしみるほどな大粒の涙をぼろぼろとはふり落としました。
しかし、右門はいつもながらの右門でした。いたたまらないもののごとくこそこそと逃げていったあばたの敬四郎のうしろ姿を笑止げに見送りながら、そのいましめをぷっきりほどいてやると、物静かにいいました。
「もうこうなりゃ、右門というあっしがお味方だから、お血筋の真柄家を再興するなり、おすきならば関取り修業を励むなり、お気ままにしなせえよ。――では、伝六、そっちの湯づけのほうは揚がり屋敷へおっぽり込んでおいてな、江戸錦どんとあとからゆっくりやって来なよ。豪気に寒いようだから、お近づきのしるしにお関取りといっしょで寄せなべでもつつこうじゃねえか」
言いおくと、ふところ手の中からあごをなでなで、ゆうぜんと歩み去りました。
――これは余談ですが、人はやはり身に備わった芸技と、その命運の示すところに左右されるものとみえて、りっぱなお直参にもなれる身分でありながら、断然江戸錦は関取修業をつづけ、のち三年にして関脇《せきわけ》の栄位を修め、恰幅《かっぷく》貫禄《かんろく》ならびにその美貌《びぼう》から、一世の人気をほしいままにしたということでした。
底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年2月16日公開
2005年7月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全6ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング