ことを忘れているといったものでしたから、はらはらとしていた伝六のおどり上がって悦に入ったことはもちろんのことなので――、
「ちえッ、ありがてえッ。碁盤さまさまだ。じゃ、例のごとく駕籠《かご》ですね」
 飛び出しそうにすると、だが、右門の忘れていたというその忘れごとは、少し意外な方面でありました。
「違うよ、違うよ。さっきからどうも何かだいじな忘れ物をしているように思ったから、いっしょうけんめいああやって廊下を歩きながら考えていたんだが、よく考えてみりゃ、おら、おなかがへっているよ」
 人を食ったことに空腹だといったものでしたから、出鼻をくじかれて、伝六が当然のごとくに鳴りだしました。
「ちえッ、冗談も休み休みおっしゃいよ! ほんとうにあきれただんなだね。まじめくさって、おなかがすいてるたあなんのことです。だんなのおなかは、身の内じゃねえんですか!」
 しかし、右門はようように重大事件を思いついたというような顔つきで、至極きまじめにいいました。
「おこったってしかたがないよ、おれがすきたくてすくんじゃねえ、おなかのほうがかってに減ってくるんだからね。大急ぎでなにかこしらえておくれよ」
「知りませんよ。いくらかってにおなかのほうから減ってくるにしたって、他人のものならだが、お自分の身の内なんだからね。なにもそんなことわざわざ碁盤を持ち出してみなくっても、わかりそうなもんじゃござんせんか」
 伝六の雲行きがとりつくしまのないほどにも、ひどく険悪でしたものでしたから、苦笑しいしいお台所のほうへはいっていったようでしたが、まもなく興津鯛《おきつだい》のひと塩干しを見つけてくると、天下の名同心むっつり右門ともあろう者が、みずからそれを火に焼いて、ようよう一食にありついたというようにちゃぶ台へ向かいました。
 しかし、そのときふと気がついたのは、そこにちんまりとお行儀よくすわりながら、手あぶりの上へ両手をかざしていた少年僧のことです。ちらりと見ると、少年のむじゃきさに、しきりと空腹らしいけぶりを見せていたものでしたから、思いついて右門は声をかけました。
「そなたもまだでありましたか」
「はい。お相伴させていただければしあわせに存じます」
 活発にいうと、おくする色もなくちゃぶ台についたものでしたから、右門は当然のごとくにあり合わせの精進物だけをそちらへ分けてやりました。しかるに、
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