うたいせつなほしのいることを忘れているんだからな」
「ちげえねえ、ちげえねえ。逆胴切りの詮議《せんぎ》から先に手がけるなんてどじな洗い方は、せいぜいあばたのだんなぐらいにやらしておきゃたくさんですからね」
「だから、ひとつ顔を洗い直して、今からその右門流を小出しにするかね」
「今から?」
「不足かい」
「だって、兵糧《ひょうろう》をつめないことには、いくらあっしだって、いくさはできませんよ」
「それだから、金葉へでもちょっくら寄って、中ぐしのふた重ねばかりも食べようかといってるんだよ」
「え? うなぎ?」
「おめえきらいか」
「どうつかまつりまして、うなぎときちゃ、おふくろの腹にいたうちから、目がねえんですがね。でも、この土川うちじゃ、目のくり玉の飛び出るほどぼられますぜ」
「しみったれたことをいうやつだな。その悲鳴が出るあんばいじゃ、ふところが北風だろうから、じゃこいつをおめえに半分くれてやろうよ」
「な、なんです?――こりゃだんな、切りもち包みじゃござんせんか」
「そうよ、その中にある品は、まさに判然と山吹き色をした二十五両だよ」
「近ごろ珍しく金満家になったもんですね」
「ねたを割りゃ、お奉行《ぶぎょう》さまのお手元金だよ。これまでのてがら金だといって、きのう五十両ばかりお中元にくだすったのでね、おれのてがらはおめえのてがらなんだから、半分そっちへおすそ分けさ」
「ちッ、ありがてえ。持つべきものは、べっぴんの女房と、いいご主人さまだ。こうなりゃ、もうお大尽です。きょうのおあいそは、みんなあっしが持とうじゃござんせんか」
「天から降った小判だと思って、いやに大束を決めだしたね。では、そろそろ出かけようか」
いうと、欣舞《きんぶ》足の踏みどころも知らないように喜び上がっている伝六を従えながら、京橋を右に曲がって、そこの横町にあった目的の金葉にゆうぜんとはいっていったとみえましたが、思いどおりにたっぷりと中ぐしをとってしまうと、がぜん十八番《おはこ》の右門流が、もうその次の瞬間から、小出しにされだしたのです。堪能《たんのう》したといったように、しきりと小楊子《こようじ》で歯をせせくっていましたが、座敷へはいってきた小女の顔をみると、やんわりと、まずこんなふうにいったもので――。
「ときに、うなぎの佃煮《つくだに》は、何日くらいもつかね」
「うちのは特別製ですから、この土用でも三日はだいじょうぶでございます」
「そうか、あした一日さえもってくれりゃいいんだから、じゃ五人まえばかり折り詰めにしてな、お代は食べたのといっしょに、そっちの男からもらってくんな」
だから、伝六が変な顔をして、だめを押したのは当然でありました。
「ね、だんな、いやみなことをいうようですが、いったんもらった以上はこっちの金ですぜ」
しかし、右門はいっこうに取り澄ましながら、でき上がってきた折り詰めを片手にすると、さっさと道を本郷台に向けて取りました。いうまでもなく、石川杉弥の屋敷を目ざしたので――。
ところが、その門のくぐり戸に手をかけようとしたときでありました。
「ね、だんな、だんな! あばたのだんなが、あとをつけてきていますぜ。やっこさんも道場洗いにしくじったとみえて、何かかぎ出そうという魂胆らしいですぜ」
そっとそでを引きながら伝六がささやいたものでしたから、右門もちょっとぎくりとなって、うしろの小やみをすかすと、なるほどことばどおり敬四郎でしたが、すでにもうかくのごとくに右門流の吟味方法を取り出した今となっては、たとえ百人の敬四郎がつけていようと、いっこう問題ではなかったので、かまわず案内を求めて、杉弥の居間に通るやいなや、真に霹靂《へきれき》の一声で、突然鋭く伝六に命じました。
「容赦《ようしゃ》をしねえで、こやつをくくしあげろ!」
これには伝六も驚きましたが、それよりも杉弥の驚愕《きょうがく》はまた格別でありました。
「な、なにを不意に理不尽なことをなさりまするか! わたくしのどこがご不審でござりまするか!」
必死に抗弁したのをぎゅっと草香流でねじあげて、面くらっている伝六をせかしながらくくらせると、しかりつけるようにいいました。
「なまっちろい顔をして、だいそれたことをするやつだ。不審のかどがあればこそ、なわ打つんだ。さ! じたばたせずと歩け! 歩け!」
のみならず、自身そのなわじりを取って表へ出ていくと、その門のところにどろぼうねこのごとく目を光らしていた敬四郎へ、ことさら聞こえよがしに、突然第二の命令を伝六にいいつけました。
「そこの片町を本通りへ出ると、越前さまのお屋敷があるからな、ちょっとひとっ走り行って、こういってきな。お小姓の石川杉弥は、少しく不審のかどがあって、八丁堀の右門がめしとったから、その旨奥女中一統をはじめ
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