ったのは、この事件の起きたときより約二十年後の承応三年ですから、このときはまだもと山王、すなわち半蔵門外の貝塚《かいづか》に鎮座ましましていたのですが、時代は徳川お三代の名君家光公のご時世であり、島原以来の切支《きりし》丹《たん》宗徒《しゅうと》も、長いこと気にかかっていた豊臣《とよとみ》の残党も、すでにご紹介したごとく、わがむっつり右門によってほとんど根絶やしにされ、このうえは高砂《たかさご》のうら舟に帆をあげて、四海波おだやかな葵《あおい》の御代を無事泰平に送ればいいという世の中でしたから、その前景気のすばらしいことすばらしいこと、お祭り好きの江戸っ子たちはいずれも質を八において、威勢のいい兄哥《あにい》なぞは、そろいのちりめんゆかたをこしらえるために、まちがえて女房を七つ屋へもっていくという騒ぎ――。
 ところで当日の山車《だし》、屋台の中のおもだったものを点検すると、まず第一に四谷伝馬町は牛若と弁慶に烏万燈《からすまんどう》の引き物、麹町《こうじまち》十一丁目は例のごとく笠鉾《かさほこ》で、笠鉾の上には金無垢《きんむく》の烏帽子《えぼし》を着用いたしました女夫猿《めおとざる》を
前へ 次へ
全47ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング