立つような気ぜわしなさでありましたが、肝心の内容についてはどういう事件がいったい起きたものか、そもそもだれの差し金であるか、少しもその辺の事を明かしてくれなかったものでしたから、明哲神のごときわがむっつり右門も、少なからずめんくらってしまいました。だが、めんくらうことはめんくらいましたが、もとよりそれは一瞬間だけのことで、右門はどこまでもわれわれの尊敬すべき立て役者です。あごの無精ひげを指先でつんつんとひっぱりながら、じっとご奉行神尾元勝の顔を見ているうちに、かれの玻璃板《はりばん》のごとき心鏡は、玲瓏《れいろう》として澄み渡ってまいりました。と同時に、心鏡へまず映ったものは、今から火急に出立いたせというその忍藩が、ほかならぬ松平伊豆守の邑封《ゆうほう》であるという一事でありました。松平伊豆守とは、いうまでもなくご存じの知恵伊豆ですが、その知恵伊豆も身は大徳川の宿老という権勢並びなき地位にありながら、当時はまだその忍藩三万石だけが領邑《りょうゆう》で、右門は早くもそのことに気がつきましたものでしたから、もうあとは宛然《えんぜん》たなごころをさすがごとし、奉行神尾元勝の目色によっておおよその見当がつきましたので、よどまずにさぐりを入れました。
「察しまするに、伊豆守様ご帰藩中でござりますな」
「しッ、声が高い! そちのことじゃから、忍まで参れといえばだいたいの見当がつくだろうと思って、わざとおしかくしていたが、察しのとおり、つい四、五日ほどまえにご帰国なさったばかりじゃ」
「といたしますると、むろんのこと、このたびのお招き状も、伊豆守様がご内密でのお召しでござりましょうな」
「さようじゃ」
「よろしゅうござります。そうとわからば、さっそくただいまから出立いたしましょうが――」
 言いかけてしばらくなにごとかを考えていましたが、右門は突然驚くべきことを、奉行神尾元勝にいいました。
「――ついては、わたくしめにご官金壱百両ほどをお貸しくださりませ」
 徳川もお三代のころ壱百両といえば、四、五年くわえようじで寝ていられるほどの大金なんでしたから、お奉行の目を丸くしたのは当然で――。
「そんな大金をまた何にいたす?」
 ぎょっとしたようにきいたのを、右門はきわめておちつきはらいながら答えました。
「伊豆守様は当代名うての知恵者。その知恵袋をもってしましてもお始末がつかなくて、
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