たたいて喜んだ伝六の口からは、たちまち悲鳴が上がりました。
「こいつだ。だんなのやるこたあ、いつでもこの手なんだからね。ほんとうに人をぬか喜びさせるにもほどがあるじゃごわせんか。なんでげすかい。春先にゃ辰巳の方角につりざおへひっかかる女の子がいるんですかい?」
 けれども、これは不平をいう伝六が無理でした。美丈夫なること右門のごとく、道心堅固なることまた右門のごとき、男でさえもほれぼれとするようなその人がらを、よく知っていながら、早まって早がてんをしたほうが悪いので、むろん右門は最初から気晴らしに、すすきでもつりに行こうというつもりでしたから、にこりともせずに伝六の不平をうしろへ聞き流しておくと、さっさと門を外へ出ていきました。
 と、その出会いがしらに、ぱったりとぶつかった男がある。ほんとうに、文字どおりぱったりとぶつかった男がありました。だれか?――だれでもない、あばたの敬四郎です。そして、真にその一瞬でありましたが、いや一瞬というよりもそのとたんといったほうが正しい。行きずれに、なにやらあわてふためいてお組屋敷へ駆け込んでいった敬四郎の姿をちらり右門が認めたかと思うと、まことに不思議な変わり方だった。ぴたり――右門の足が突然そこへくぎづけにされてしまいました。同時に、鋭い声で――。
「伝六!」
「え? てんかんでも起きたんでござんすか?」
「バカ! どうやら大きなさかながかかりそうだぞ」
「どこです? どこに泳いでいます?」
「あいかわらず、きさまはひょうきん者だな、敬四郎どのの様子が尋常でない。今からすぐお奉行所までひとっ走り行ってこい!」
「またあれだ。やぶからぼうに変なことをおっしゃって、このうえあっしをかつぐ気でござんすかい?」
 これは無理もないので。ひとことも訳は語らないで、ほんとうにやぶからぼうに右門の空もようががらりと変わりましたものでしたから、なにがなにやらふにおちかねて伝六が二の足を踏んだのはまことに無理からぬことでしたが、しかし、名犬はよくそのにおいによって獲物の大小をかぎ分く――実はそれが右門の右門たるところで、早くもかれは、その全身にみなぎりあふれている名同心のたぐいまれな嗅覚《きゅうかく》で、事の容易ならざるけはいをかぎとったのです。何によってかぎとったか?――いわずと知れた今のその敬四郎の目の色で、それからそのうろたえ方で、こいつ
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