ったいありますものかね」
「いかがいたした」
「あっしの頭の上に、なにか雲のようなものが突然ふうわりと舞い下がりましてね、それっきりあっしゃ眠らされてしまったんですよ」
「なに、眠らされた?」
 その一語をきくと同時に、むっつり右門の苦み走った面には、さっと血の色がわき上がりました。これがまたどうして色めきたたずにいられましょうぞ! 現在同僚たちが色を失って右往左往と立ち騒いでいる長助殺しの事件の裏にも、坂上親子の陳述によれば、同じその眠りの術が施されていましたので、右門の面はただに血の色がわき上がったばかりではなく、その両眼はにわかに異様な輝きを帯びてまいりました。心をはずませてひざをのり出すと、たたみかけて尋ねました。
「事実ならばいかにも奇怪じゃが、その眠りというのは、どんなもようじゃった」
「まるで穴の中へでもひきずり込まれるような眠けでござんした」
「で、金はその間に紛失いたしておったというんじゃな」
「へえい、さようで……ですから、目のくり玉をでんぐらかえして、すぐと数寄屋橋《すきやばし》のお奉行所へ駆け込み訴訟をしたんですが、なんでございますか、お役人はあちらにもご当番のかたが五、六人ばかりいらっしゃいましたのに、きょうは骨休みじゃとか申されて、いっこうにお取り上げがなかったんで、こちらまで飛んでめえりましたんでござんす」
「よし、あいわかった、普通なら、そんな事件、手下の者にでも任すのがご法だが、少しく思い当たる節があるから、てまえがじきじきに取り扱ってつかわす。念のために、そのほうの所番地を申し置いてまいれ」
 おどり上がって町人が所番地を言い置きながら引き下がったので、むっつり右門はここにはじめて敢然と奮い立ちました。まことにそれは、敢然として奮い立つということばが、いちばん適切な形容でありました。なぜかならば、多くの場合その種の変わり者がとかく世間からバカにされがちであるように、右門もこれまであまりにも珍しすぎる黙り屋であったために、同僚たちから生来の愚か者と解釈されて、ことごとに小バカにされながら、ついぞ今まで一度たりとも、ろくな事件をあてがわれたことはなかったからです。けれども、今こそ千載一遇の時節が到来したのです。右門は血ぶるいしながら立ち上がりました。もちろん、その間にも同僚たちはわいわいとわけもなく騒ぎたって、われこそ一番がけに長助殺
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