たのである。
しかしこの謎《なぞ》は、このまえの第九回の開塾式の日についに解けた。
その日、荒田老は、めずらしく式後に居残《いのこ》ってみんなと食事をともにした。そして食事がすんだあとも、いつになく軽妙《けいみょう》なしゃれを飛ばしたりして、他の来賓たちと雑談をかわし、なかなか帰ろうとしなかった。で、いつもなら食後三十分もたてば引きあげるはずの他の来賓たちも、荒田老に対する気がねから、かなりながいこと尻《しり》をおちつけていた。しかし二、三の来賓がとうとうたまりかねたように立ちあがり、その一人が荒田老に近づいて、
「お先にはなはだ失礼ですが、ちょっと急な用をひかえていますので……」
と、いかにも恐縮《きょうしゅく》したようにいうと、荒田老は、黒眼鏡の顔をとぼけたようにそのほうに向けて答えた。
「わしですか。わしにならどうぞおかまいなく。……今日はわしは午後までゆっくり見学さしてもらうことにしておりますので。」
それから朝倉先生のすわっているほうに黒眼鏡を向け、
「塾長さん、ご迷惑ではないでしょうかな。」
「いいえ、いっこうかまいません。どうぞごゆっくり。」
朝倉先生は、みんなの緊張した視線の交錯《こうさく》の中でこたえた。わざとらしくない、おちついた答えだった。
「実はね、塾長さん――」
と、荒田老はいくらか威圧《いあつ》するような声で、
「式場であんたのいわれることは、毎度きいていて、大よそは、わかったつもりです。しかし、ちょっと腑《ふ》におちないところがありましてな。――これは、理事長のいわれることについても同じじゃが。――で、もう少し立ち入っておききしたいと思っているんです。」
「いや、それはどうも。……なにぶん式場ではじっくり話すというわけにはまいりませんので。で、どういう点にご不審《ふしん》がおありでしょうか。」
立ちかけていた来賓たちも、そのまま棒立ちになって、荒田老の言葉を待っていた。すると荒田老はどなるように言った。
「わしとあんたの間で問答しても、何の役にもたたん。」
「は?」
と、朝倉先生はけげんそうな顔をしている。
「あんたがこれから塾生に何を言われるか、それがききたいのです。」
「なるほど、ごもっともです。」
朝倉先生は微笑《びしょう》してうなずいた。
「今日、式場で、あんたは午後の懇談会《こんだいかい》であんたの考えをもっと委《くわ》しく話すといわれましたな。」
「ええ、申しました。」
「わしは、それを傍聴《ぼうちょう》さしてもらえば結構です。」
「なるほど、よくわかりました。どうか、ご随意《ずいい》になすっていただきます。」
来賓たちは、あとに気を残しながら、間もなく引きあげた。田沼《たぬま》理事裏もすぐあとを追って引きあげたが、立ちがけに荒田老の肩《かた》を軽くたたきながら、冗談《じょうだん》まじりに言った。
「どうぞごゆっくり、私はお先に失礼します。あとは塾長まかせですが、塾長に何かまちがったことがありましたら、お叱《しか》りは私がうけますから、よろしく願いますよ。」
荒田老は、それに対してはうんともすんとも答えず、腕を組んで木像のようにすわっているきりだった。
そのあと、玄関で、塾長と理事長との間に小声でつぎのような問答がかわされたのを、次郎はきいた。
「行事はいつもの通りにすすめていくつもりです。」
「むろん。」
「さけ得られる摩擦《まさつ》はなるだけさけたいと思っていますが……。」
「そう。それはできるだけ。……しかし、それも塾の方針があいまいにならない程度でないと……」
「それは、いうまでもありません。」
やがて午後の懇談会の時刻になった。合い図はすべて、事務室の前につるした板木《ばんぎ》――寺院などでよく見るような――を鳴らすことになっていたが、次郎がその前に立って木槌《きづち》をふるおうとしていると、荒田老の例の付き添いの男――鈴田《すずた》という姓《せい》だった――が、塾長室から急いで出て来てたずねた。
「懇談会はどこでやるんです。」
「さっき食事をした畳敷きの広間です。」
「あ、そう。」
と、鈴田はすぐに塾長室に引きかえした。そして、次郎がまだ板木を打っている間に、荒田老の手を引いて広間にはいって行った。
次郎が板木を鳴らしおわって広間にはいったときには、荒田老はもう窓ぎわに、鈴田とならんでどっしりとすわりこんでいた。次郎が床《とこ》の間《ま》のほうを指さして、
「どうぞこちらに。」
というと、鈴田はだまって手を横にふり、ただ眼だけをぎらぎら光らした。
やがて朝倉夫人が炊事場のほうから手をふきふきやって来て、しも手の入り口から中にはいった。ほとんど同時に、朝倉先生もかみ手のほうの入り口からはいって来た。
二人は代わる代わる荒田老に上座《かみざ》
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