生は、ある夕方、外出先から帰って来て室内を見まわしながら言った。
「せっかく整理してもらったが、近いうちにまた引越すことになるかもしれないよ。」
「あら。」
 と夫人は、めったに先生には見せたことのない不満な気持ちを、かるい驚《おどろ》きの中にこめて、
「やはり、こちらでは手ぜまでしょうか。」
 夫人がそういうと、次郎も、それが自分のせいだという気がして顔をくもらせた。先生は、しかし、笑いながら、
「手ぜまなのは、覚悟《かくご》のまえさ。越したところで、どうせ今度の家も広くはないよ。あるいは、ここよりも窮屈《きゅうくつ》になるかもしれん。実は、はっきり決まらないうちに話して、ぬか喜びをさせるのもどうかと思って、ひかえていたんだが、私がかねて考えていたことが近く実現しそうになったのでね。」
「考えていらしったことといいますと?」
「青年|塾《じゅく》のことさ。」
「あら、そう?」
 夫人はもう一度おどろいた。それは、しかし、深い喜びをこめたおどろきだった。
「土地や建物も、あんがいぞうさなく手に入ったんだ。何もかも田沼《たぬま》さんのお力でできたことなんだがね。」
 田沼さんというのは、朝倉先生が学生時代から兄事《けいじ》し崇拝《すうはい》さえしていた同郷の先輩で、官界の偉材《いざい》、というよりは大衆青年の父と呼ばれ、若い国民の大導師《だいどうし》とさえ呼ばれている社会教育の大先覚者で、その功績によって貴族院議員に勅選《ちょくせん》された人なのである。次郎はまだ一度もその風貌《ふうぼう》に接したことはなかった。しかし、朝倉先生の口を通して、およそその人がらを想像していた。先生のいうところでは、「田沼さんは、聖賢《せいけん》の心と、詩人の情熱とをかねそなえた理想的な政治家」であり、「明治・大正・昭和を通じて、日本が生んだ庶民《しょみん》教育家の最高峰《さいこうほう》」だったのである。
 次郎は、「田沼さんのお力で」という言葉をきいた瞬間、何か霊感《れいかん》に似たものが胸にわくのを覚えた。朝倉先生の青年塾の計画については全くの初耳であり、ただ先生が上京以来、普通《ふつう》の学校教育以外のことを何かもくろんでいるらしいと想像していただけだったが、田沼――朝倉――青年塾――と、こう結びつけて考えただけで、近年日本の空を重くるしくとじこめている雲の中を一道のさわやかな自由の風が吹《ふ》きぬけて行くような心地が、かれにはしたのである。
 同時にかれはきわめて当然の事として、かれ自身がその青年塾の最初の塾生になる事を考えていた。朝倉先生に師事しつつ、塾生の立場から塾風《じゅくふう》樹立《じゅりつ》の基礎固《きそがた》めに努力し、しかもしばしば田沼という大人格者に接して親しく言葉をかわしている自分を想像すると、胸がおどるようだった。
 朝倉先生は、そのあと、計画中の青年塾について、あらましつぎのようなことを二人に話した。
 場所は東京の郊外で、東上線の下赤塚《しもあかつか》駅から徒歩十分内外の、赤松《あかまつ》と櫟《くぬぎ》の森にかこまれた閑静《かんせい》なところである。敷地《しきち》は約五千|坪《つぼ》、そのうち半分は、すぐにでも菜園につかえる。さる老実業家が自分の隠居所《いんきょじょ》を建てるつもりで、いろいろの庭木《にわき》なども用意し、ことに、千本にも近いつつじを植え込《こ》んでおいたところなので、花の季節になると、錦《にしき》をしいたような美観を呈する。
 隠居所の建築は、老実業家の急死で取りやめになった。相続者はその追善《ついぜん》のために、だれか信頼《しんらい》のできる人で、精神的な事業に利用したいという人があったら、土地だけでなく、相当の建築費をそえて寄付したいという意向をもらしていた。それをある人が田沼さんの耳に入れた。田沼さんは、満州事変以来日本の流行のようになっている塾風教育が、人間性を無視した、強権的な鍛練《たんれん》主義一点ばりの傾向《けいこう》にあるのを深く憂《うれ》えていた際だったので、すぐそれを自分の新しい構想に基づく青年塾に利用したいと考えた。しかし、それには、自分と思想傾向を同じくし、かつ専心その指導に任じてくれる人がなければならない。自分自身でやって見たいのは山々だが、各方面に関係の多いからだでは、それが許されないし、ことに最近は自分が中心になって、憲政擁護《けんせいようご》と政治|浄化《じょうか》の猛《もう》運動を展開している最中なので、それから手をひくわけには絶対に行かない。そんなことで、内々適任者を物色《ぶっしょく》していたところだった。そこへ、たまたま朝倉先生の五・一五事件批判の舌禍《ぜっか》事件が発生し、つづいて教職辞任となり、そのことで二人の間に二三回手紙をやり取りしている間に、どちらも願っ
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